・名誉と毒

 

 暗い部屋だった。
 窓から差し込んでくる太陽の光すら淀んで見える暗い部屋。

 その窓辺のベッドには主が居た。年のころはまだ20半ば。ぬけるように白い肌、と言えば聞こえはいいが、それは病的に白く、やせこけた体は痛々しいほどだった。

 彼女は窓辺から外を見下ろした。そこから見える荒れた庭園を見下ろして、自分に似ていると、ため息と共に思う。

 かつては庭師が定期的に手入れをしていたが、家にはもうそんな金は無かった。

 彼女の家は、男爵に叙せられていたが、先代の死を契機に没落し、今では広い屋敷だけが最後の財産となり、その広い屋敷も使用人を雇うことも出来ずに朽ちかけている。

 そして残されたのは彼女、長女であるモルガン・アデナウアーと、そしてベッドの傍らで暗い面持ちで椅子に腰掛けている弟のゲルハルト・アデナウアーだった。

 ゲルハルトはプロンテラ騎士団で北部国境防衛部隊長という役目こそ負っているものの、正直なところ騎士というのは、それだけで食べていけるものではない。

 騎士という称号はある種の職権である。金を得るための手段なのである。

 騎士という職業に伴う封建制とは、そうした騎士という権威によって下々の者に、保護を与え、領土や財産を保障し、保護される側が封建領主に対して見返りを支払う事によって形成されているものなのだ。しかし、ゲルハルトは世渡りが下手だった。

 戦で功績を挙げることこそが、騎士の誉れと信じ、金儲けに走ることを良しとしない男なのである。

 ゲルハルトは姉のベッドの傍らで申し訳なさそうに、短く刈った自分の頭をかいた。

「姉さん…俺が、ふがいないばっかりに苦労かけて…ごめんな」

 モルガンは黙したまま首をゆっくりと横に振った。

「次の戦争が起きたら、俺絶対にでっかい戦功を挙げて姉さんに楽させてやるから!」

「ありがとう、ゲルハルト。でもね、お姉ちゃんはそんな事よりも、ゲルハルトが元気に生きて帰って来てくれる事の方が、嬉しいかな」

 そう言って、モルガンは寂しげに笑った。
 彼女は窓の隙間から舞い込む風が少し寒くて、自分の肩を抱いたが、指に触れる自分の体の感触は、記憶に在る自分の体とはずいぶんと違う、骨ばった感触だった。

 もう長くはないだろう。

 漠然とした思いがあった。貧しい生活の中で、肺病を患って医者にも見離された。今、自分と世界の接点は唯一、定期的に、わざわざアルデバランから家に帰ってきては気休めとはいえ薬を持ってきて面倒を見てくれる弟のゲルハルトだけだった。

 ベッドの横の窓から見える世界と、そして目の前の弟。

 これだけが、ここ数年の彼女の現実だった。

「ゲルハルト。次の戦争なんて言ったらダメ。戦争なんて、本当は起きない方が良いんだから」

 モルガンの諭すように優しい声は美しかったが、最後の方まで息が続かずにかすれて、むせこんでしまう。

「姉さん!ムリしないで」

 不安そうに背中をなでるゲルハルトをモルガンは苦しそうに薄目を開けて、上目遣いに見上げた。彼女の長いまつげに、涙の珠が乗っている。

「ムリをしてはいけないのは、あなたの方よゲルハルト。なんだか、お姉ちゃん。あなたを見ていると、最近は必死すぎてなんだか危なっかしいわ」

 そう言われてゲルハルトはモルガンから目線をそらす。心の奥底まで覗かれそうな、姉の視線が恐ろしかった。

 戦が、戦功が欲しかった。
 この先の見えない闇から脱出するためには、戦功がどうしても欲しかった。

 ゲルハルトは姉をそっとベッドに寝かすと、ゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、姉さん・・・俺はそろそろ戻るよ、また来るから」

 ゲルハルトは姉に背を向けて部屋の扉へと向かう。壁に飾られた、父の肖像画を見ていると、申し訳なさと情けなさがこみ上げてくる。

 その絵を見ないように、ゲルハルトは部屋の外に出た。

 暗い廊下。かつては何人もの使用人が居た白く綺麗な明るい廊下だったというのに、今ではところどころ雨漏りで床が変質し、歩くごとに音を立てる古びた廊下である。

 名誉が、名声が欲しかった。
 剣の技術も、戦争の技術も、自らに絶大な自信を持っている。だが、この太平の世においては、それはまさに無用の長物で、食っていくには剣の腕よりも、算盤をはじく指が必要なのだ。

「くそ…俺が、俺がしっかりしていれば…」

 ゲルハルトは暗い廊下に落とした自らの影に向かってつぶやいた。それを口にするほどに、彼の中の惨めさは実体を持って重くのしかかり、目の奥に涙が溜まってくるのが自分でも解るほどだった。

「クスクスクス」

 誰も居ないはずの廊下に女の笑い声がこだました。

 剣に手をかけて、慌てて辺りを見回すゲルハルト。階段を上りきったところに黒いローブを身にまとった人間が発っているのが見えた。そして、その笑い声はその人物から発されているのだ。

「クスクスクス」

 風のように、さらさらと流れ落ちる笑い声。

 フードの深い闇の奥で、彼女の目が緑色に笑っていた。

「誰だ!」

 ゲルハルトの誰何の声が聞こえぬかのように、女は笑いながら一歩一歩近づいてくる。

「と、止まれ!何者だ!」

「クスクス。不幸な騎士さま。そう、恐れることはない…私は、プロンテラ特別異端審問官。不幸なる者を救いましょう」

 女の緑色の瞳がゲルハルトを深く貫いた。

「な、なんだと?」

「見ればお困りの様子…よろしければ、力になってあげないこともないのだけど?」

 女は懐から、小さな銀製のランプを一つ取り出してゲルハルトへと差し出した。

「こ、これは?何のつもりだ!」

「これなるは・・・魔法のランプ。これをこすれば、ランプの精が現れて、その者の願いを三つ、何なりと叶えてくれるという秘宝中の秘宝」

 そこまで言って、女は暗いフードの下で小さく「クスクス」と、また笑った。

「だったのだが…。実は、昨日、執務室で書類を読もうと思ったら、メガネが見あたらなんでな。急ぎだったので、ランプの精に頼んで探し出してもらったのだ。それから、今日ここに来るときに、慣れぬ貴族の邸宅街だ。道に迷ってしまって、ランプの精に案内してもらったのだ。というわけで、残り一つだが…。まあ、一つあれば十分であろう」

 女の口元が意地悪く笑った。

「汝、自らの願いを叶えんと欲するか?」

「くっ・・・あっはっはっはっは!変な女だ。何を世迷言を。貸してみろっ、こうしたらランプの精が出てくるとでも言うのか?」

 ゲルハルトが女の手からランプを奪い取り、その銀の優美な曲面を手で荒っぽく撫で付けた刹那、ランプから紫色の煙が立ち昇り、突風と共に女が一人中空へと舞い上がった。

「我を呼び覚ますものは誰ぞ?」

 薄布でできた、モロクの宮廷風の衣装を身にまとった女が、宙に浮いていた。
「ば、ばかな・・・」

 ゲルハルトはその女を見上げて、震える声でつぶやいた。それは、誰に言うでもなく、あるいは目の前の信じがたい現実に対する文句だったのかもしれない。

「クスクスクス。信じたか?どうする?お前が望むなら、願いを叶えて良いぞ」

 ゲルハルトは目をまるく見開いたまま、ローブの女のほうを向いて、何度も何度も壊れた人形のように頭を縦に振った。もう、なんでも信じてやる。そんな気持ちであった。

「そうか、ならば…あとはお前に任せよう、さらばだ。よく、考えて頼むのだぞ」

 女は踵を返し、音を立ててローブを翻すと、小気味良いリズムを刻んで階段を下っていった。

「汝、願いを答えよ?」

 ランプの精は、やまびこにも似た神秘的な声で彼に問いかける。
 彼女が動くたびに、魅惑的でどこか扇情的な、異国の香りがやさしく漂う。まるで、不思議な夢に迷い込んだかのような幻想的な香りだった。

「そ、そうだな・・・では、姉さんの・・・」

 ランプの精の問いかけに、ゲルハルトは一瞬言いかけて、そのまま口を開いたまま制止する。

 心臓が、ドクリと大きく脈を打った。
 彼はそっと背後の姉の部屋を見る。姉は・・・眠っている。それを、そっとドアの隙間から確認した。

「ランプの精よ…願いは何でも叶えられるのだな?」

「もちろん」

 ゲルハルトはごくりと喉をならした。嫌な汗が、背中をつたい落ちる感覚に、小さく身震いする。シンと静まり返った暗い廊下に立ち尽くし、ゲルハルトはきつく目を閉じた。

 高鳴る心臓。

 心の中で幾万遍と繰り返される問答と葛藤。

 そして、背中から抱擁するかのように覆いかぶさる罪悪感と、誘惑。

 今、この精霊に願えば、姉を救うことが出来る。
 家の再興をすることも出来る。

 カラカラに渇ききった喉がヒリヒリと痛んだ。

 ゲルハルトは、じっとりと汗のにじんだ拳を握り締めて、ランプの精を見上げた。

「ならば、俺を英雄にしてくれ。誰もが憧れるような、歴史に名を残す偉大な英雄に」

「願いは聞き入れた。ならば、次の戦が起きたとき、貴様はその功績によって、王国の偉大な英雄として列せられるであろう」

「つ、次の戦争?それは、いつ起きるのだ?」

「さぁ?それは知らん。そういう時のために、元来は三つ叶えられるのだが、あの女め、私をまるで小間使いか何かと勘違いしているかのように二つも願いを消費しおった。欲が無いのか・・・まったく」

「わかった・・・戦争が起きるかどうかは運次第だが、つまり、戦争さえ起きれば、俺は英雄になれるのだな」

「そのとおりだ。では、さらばだ人間」

 そう言って、ランプの精は紫色の煙とともに霧消して、その廊下には元通りの冷たい沈黙と、寂れた暗がりだけが取り残された。そして最後に、カランと音を立てて、銀色のランプが地面へと転がった。

 ゲルハルトはそれを拾い上げて、何度かこすってみたが、表面に自分の指紋がついただけで、何かが出てくる気配は一向になかった。

***

 女はプロンテラ大聖堂の執務室で難しい顔で報告書をにらみつけていた。
 プロンテラ大聖堂特別異端審問会に与えられた一室である。

「あのぉ、お師匠様?どうしたんですか?難しい顔をなさって」

 傍らの少女が聞く。

 大きな宝石のような相貌で見上げられると、無視することも出来ずに女は思わず微笑んでしまった。

「いや、実はな…国境地帯で軽いいざこざがあったらしい。シュバルツバルドと揉め事にならねば良いが」

「シュバルツバルド共和国って、仲が悪いのですか?飛行船の定期航路とかあるのに」

 少女は小さく首をかしげる。

「あまり良好ではない。飛行船もあれは民間企業がやっていることだ。それに、飛行船航路による流通の活発化で王国は貿易赤字が増大しておるしな」

「えっと…?」

 少女は必死で師の言葉を理解しようとして、天井をにらみつけながら、一人前に腕組みして考え始めた。わからない単語は、ミンカンキギョー、ボーエキアカジである。

「あ、いや。すまんな。難しすぎたか。国民同士は仲が良くても、国と国はあまり仲が良いとは限らんのだよ」

「へぇ、難しいんですね」

 少女は今度は腕組みして床の木目をにらみつける。床を見ていると、木目が笑ったり、泣いたりと様々な文様になっていて彼女は好きだった。だから、そんな木目の顔のうち、賢そうな顔でも見つけたら、その顔が自分にわかりやすく説明してくれないかなどと、小さく空想したのも仕方ないことである。

 同様に、彼女は雲が好きだった。

 それは、さまざまな動物や、食べ物や、空想上の生物へと千変万化の変化を見せる。

 だが、そんな景色を見ているとき、彼女の表情こそが、最もくるくると可愛らしく変化して回っている事は本人は気づいていない。

 床をにらみつける少女を、女は優しい微笑を浮かべて見つめていた。
 その少女の表情を見ていると、人生というものはきっと本当に楽しいものなのだと確信することが出来る。女は少女に感謝していた。

「昔、モロク王国という国があった」

 そんな少女を見つめつつ、女はゆっくりと話を始めた。

 少女も床から目を上げて、やさしく言葉を紡ぐ師匠の薄桃色の唇を見つめる。

「モロク・・・王国ですか?」

「そう、今はモロクという都市になっているが…あそこは、かつては独立国だった」

「王様、どこいっちゃったんですか?」

 少女は小さく首をかしげる。女は悲しげな目で、少女と自分のちょうど真ん中辺りの中空を見つめてつぶやいた。

「滅んだのだよ…いや、ルーンミドガズ王国が滅ぼしたのだ」

 少女はその言葉に、ゴクリと唾を飲み下した。

 そして、女は弟子たる少女に向かい、長い長い昔話を始める。

 かつて、モロクはモロク王国として、砂漠地帯で栄華を築き上げた王国だった。彼らは、砂漠を行き来するキャラバンを組み、南部の交易路を独占し、そのために、アルベルタに荷揚げされる世界の様々な貿易品は、彼らモロク商人の手を介してでしか手に入らず、ルーンミドガズ王国は彼らに対して高いマージンを支払う形となっていた。

 しかし、だからといって短絡的にモロクを攻められるわけが無い。
 遠交近攻こそ外交の基本。当時から、ルーンミドガズ王国はシュバルツバルドとは一定の緊張感を持った関係を保っていた。

 そのため、もしモロクに攻め入ろうものならば、彼らシュバルツバルド共和国はモロク王国への人道的な援軍という名目の元に、背後を突いてルーンミドガズ王国内へと侵入しかねない。それだけは避けなければならない。

 とはいえ、過剰な片貿易によってモロク王国相手の貿易赤字はかさみ、国庫の銀は底が見え始めていた。

 そんな時、ルーンミドガズ王国はついに、モロク王国を滅ぼす事を決意した。彼らは、大聖堂の協力を得て、聖職者を何人も宣教師としてモロクへと送り込んだ。モロクにはもともと、土着の宗教があり、ほとんどの国民が信仰をしていたが、そこに新たにルーンミドガズ王国から国教の宣教師が送り込まれるわけである。

 表面上、貿易相手国として親密な関係にあるモロク王国は、この文化交流を拒否する事が出来なかった。

 そこからの展開は速かった。
 いくばくかの信者を得て、モロク王国内で着々と勢力を拡大していくなかで、意図的に宗教的な武装蜂起を促す。当然ながら、モロク王国軍によって鎮圧、あるいは弾圧が行われる。

 これこそが、ルーンミドガズ王国の真の目的である。彼らは、頃合を見計らって、モロク王国の非人道的な宗教弾圧に対して、自らを信教の守護者と名乗り、教皇庁のお墨付きの上で十字軍を派遣した。

 シュバルツバルド共和国は、ルーンミドガズ王国と同じ宗教を国教としている。そのため、ルーンミドガズ王国が宗教上の見地から、信教の守護者として教皇庁のお墨付きの上でモロクに出兵したのを咎める事はできない。もし、そこでルーンミドガズ王国に対して宣戦布告などしようものならば、彼らこそが背教者となるのである。

 モロク王国は内部での宗教的武装蜂起と、外部からのルーンミドガズ王国の攻撃によって、あっさりと滅んだという。

 そこまで、話を終えて女は少女をじっと見詰めた。

 話を聞き入っていた少女は、黙り込んだままである。その脳裏には、どんな凄惨な光景が思い描かれているのか、それを思うと女は少し心が痛んだ。

「可哀想…」

 少女は色々と考えて、やっと見つけた言葉がソレだった。

「やりすぎだとも言えるな。だが、モロクの商人は莫大な中間利益を手に入れていただけではなく、御禁制の麻薬も輸出していた…完全に彼らに非が無いわけでもない」

「だれが悪いんでしょうか…」

 少女は不安げに師匠を見上げた。
 女は少女の目を一度じっくりと見つめ返してから、ゆっくり目を閉じて首を横に振った。

「解らんよ。悪い、正しいだけでは歴史は語り得ぬ。それに、人はみな等しく罪人だ」

 そう結んで女は目を開けて少女を見た。
 少し心が痛む。そんな定番の教典の言葉で結んで、真実から目をそむけているようにも思える。だから、彼女は少女の目をじっと見つめられなかった。

 心の底まで見通すような澄んだ瞳が恐ろしかった。

 

***

 三日後。
 大聖堂は葬儀の準備に追われていた。

 弔われるのは、先日の国境地帯での武力衝突で命を落とした若い騎士であるという。

 まだ、棺が到着せず、真っ黒なローブを頭からかぶった女はイラ立ちながら近くの神父に小さく耳打ちした。

「嫌な予感がする」

 神父は不思議そうに彼女を見上げた。

「どうか、なさいましたか?」

 女はフードの中で小さく頷く。

「話が出来すぎていないか?国境地帯での武力衝突。そこで、ただ一名命を落とした騎士。若い男で、近日結婚する予定だったという…。戦争の火種にならねば良いが」

「そんな物騒な…考えすぎですよ。それに、亡くなられた方に失礼です」

 神父は眉根を寄せて神妙な顔つきで答えた。その動きは、彼女の言った可能性など、予想したくもないと言いたげな雰囲気である。

 ほどなく、大聖堂の入り口の扉がギシリと音を立てて開かれ、聖堂内へと棺が運び込まれる。
 国旗を被された棺が、厳かに祭壇へと運ばれていくのを、女は無言で見つめていた。

「ご遺体に葬送の花をおくらせていただいてよろしいか?」

 女が片手に一輪の花を持って、棺へと近づくと、棺を運んできた、強面の騎士の男が彼女を制止した。

「お待ちください。遺体は損傷が激しく、腐敗も進んでいるため、すでに棺は釘で打ちつけてしまっております。申し訳ございませんが、彼の上官としてお気持ちだけありがたく頂いておきます」

 男はそう言って恭しく頭を下げた。

「おや、あ、あなたは」

 ゲルハルトは女を見上げて、驚きの声をあげた。

「ふむ、久方ぶりだな…その後どうだ?願いはかなったか?」

「はい、おかげさまで」

 ゲルハルトは女の目線を避けるように頭を下げてうなずいた。どうしても、その目を見て嘘をつくのが恐ろしかったのである。

「貴公、名は何と言う?」

 女にそう問われて、ゲルハルトは上目遣いに彼女を見上げ、手を胸に当てて片膝をつき、「北部国境防衛部隊長 ゲルハルト・アデナウアーに御座います。どうかお見知りおきを」と、丁寧に言うと女の手をとって口付けた。

 やたらと芝居がかったその仕草が癇に障って、女は逃げるように手を引き戻す。

 女は、ゲルハルトのそばをすぐに離れ、葬儀の一部始終の間、遠くから彼をじっと睨みつけていた。

 葬儀が終わるまでの間、ゲルハルトは終始悲壮な表情で棺を見つめて、涙にむせいでいた。
 いざ埋葬となると、彼は涙ながらにシャベルをとって、棺へと土をひとかき乗せる。そんな姿を見ていると、女は彼のことを疑っていた自分に罪悪感を感じずには居られなかった。

 葬儀の片付けも終わると、女は執務室に戻って書類に目を通すことにした。このところの、国境地帯での事件に関する報告書である。

 執務室では、部屋の中で少女が片づけをしていた。いつも、自分が部屋を散らかして、少女がそれらの物をあるべき場所に戻しておいてくれるのである。

「あ、お疲れ様です。お師匠様」

 本当に、妙に疲れた心を少女の笑顔が癒してくれる。彼女は少女の頭をポンと撫でて「ご苦労」と、言って椅子に腰掛けた。頭をなでられた少女は嬉しそうに、両手で師匠の触った自分の頭を確かめるように触っていた。

「さて、これが報告書か・・・」

 女は書面へと目を落とす。
 事件の概要は簡単である。アルデバラン北の国境地帯にある共同警備区域において、挑発的な行為があり、その結果として散発的な戦闘が発生したという。ルーンミドガズ王国はシュバルツバルド共和国が挑発をしてきたと主張し、シュバルツバルド共和国は当然ながらその逆を主張しているという。

 その中で、戦闘行為の結果として、一名。北方防衛部隊の騎士、ゲオルグ・シュバイツァー22歳が死亡したという。彼は近日、結婚を控えている身であったとの事である。

 報告書はさらに、その事実が国民に知れ渡って、反シュバルツバルドの気運が盛り上がっているという事を警告していた。

「むぅ、何かこう・・・きな臭いな」

 バサリと紙の束を机に投げ出して、女は顔を上げた。少女が不安げに自分を見つめていることに気がついて、彼女はわざとらしく笑って見せた。

「気にすることは無い。きっと大丈夫だ」

 やはり、少女と目を合わせる事は出来なかった。

 少女は、じっと自分を見詰めている。

「戦争、起きますか?」

 少女の瞳に捕らえられて、女は話をそらす事が出来なかった。その瞳はがっちりと彼女を捕らえて、ごまかすことも、逃げることも出来なくしてしまう。

「起きるかも・・・しれないな」

 哀しげに女は言った。

「一応、あの隊長にも、もう少し詳しく話を聞いてみたいところだな…」

 とはいえ、そういう訳にもいかない。聞くところによれば、彼は今日は王宮に行っているのだという。国王直々に呼んだらしく、今回の一件についての慰労も兼ねているという。そして、彼の父は元々、王子の剣術指南役だったらしく王室とも面識が深いという。

 あの、妙に仰々しい貴族趣味の挨拶も、そうした日常から生まれたものなのかもしれない。

 女は男が口付けた自分の手の甲を、改めて見つめなおしてから、小さく身震いしてゴシゴシとローブの袖で擦り始めた。

「ど、どうしました?お師匠様」

「消毒だよ」

 女は久々に悪魔のように意地悪く、暖かく微笑んだ。

***

 翌日。事態は急転直下の展開を見せる。

 トリスタン三世の息子が毒殺されたのである。またたく間に、シュバルツバルド共和国による暗殺説が流布された。

 即日、プロンテラ騎士団によって、一人のシュバルツバルド国籍の男が逮捕され、彼の口から皇太子暗殺についての自白がなされたと発表。そして、暗殺はシュバルツバルド共和国の上層部からの指示であるとされていた。

 おりしも、国境地帯の戦闘事件以来、反シュバルツバルドの空気の流れる王国。軍靴の足音は一足飛びに、目の前まで到達した。

 アルデバラン北部国境防衛部隊駐屯地。
 男はフルプレートを身にまとい、勇猛たる騎士たちの前に立った。

「諸君!我らが敬愛すべき皇太子陛下はシュバルツバルドの卑劣なる毒の前に倒れられた。このような暴挙を許しておけるはずがあろうか!我らプロンテラ騎士団の意地にかけてでも、シュバルツバルドに神の裁きの鉄槌を下そうではないか!」

 叫んだ男の名は、ゲルハルト・アデナウアー。
 剣を天へと突きたてて目の前に立ち並んだ部下たちを鼓舞する。

 長雨の日が続く中、珍しく晴天に恵まれた六月のその日。ルーンミドガズ王国と、シュバルツバルド共和国の戦端が開かれる事となった。

 大歓声の中で、聴覚が麻痺していく感覚をゲルハルトは味わっていた。フルプレートのこすれる音。鈍重な鉄の鎧の動く音。馬の蹄の音。そして、はためく軍旗の勇壮なこと。

 全てがまるで、自分を英雄へと導くオーケストラの演奏にすら思えた。

「全軍、我に続け!」

 ゲルハルトが馬を走らせると、部下たちがそれに続く。

 見る見るうちに、国境地帯が近づいてくる。
 突然、接近してくる大軍勢を見てあっけに取られている警備兵。ゲルハルトはあっという間に肉薄。ハルバードの一閃が敵を一振りのもとに斬り捨てる。

「覚悟せよ!皇太子陛下の弔い合戦だ!行くぞぉ!」

 入り乱れる剣戟の響きに、悲鳴、怒号、馬の嘶き。
 それらの入り混じった大音響が、ゲルハルトをどんどんと高揚させていく。逃げそびれた敵兵を、仲間の槍が馬上から貫く。

 切り落とされた敵の首を、槍で高く掲げてさらに敵陣深くへと入り込む。

 建物に火を放て!
 ゲルハルトの命令の元に、次々と火矢が打ち込まれ、あぶりだされた敵兵は、次々と撫で斬りにされていく。

「一兵たりとも逃すな!情報が後方に伝わる前に、一気に攻め上るのだ!ゆくぞぉ!憎き皇太子様の仇!根絶やしにしろ!」

 最早、誰一人としてゲルハルトの声など聞こえていないかもしれない。だが、そうして叫ぶことが、彼にはこの上ない快感であった。自分は、英雄になっている。英雄として戦場を駆け巡っている。彼は大声で笑いながら、目の前の敵兵を切り捨てた。

 異常な殺戮空間がまるで天国の如く甘美に見えた。

 降りかかる返り血は美酒の如く、引き裂かれる悲鳴は聖歌の如く。この上ない満足感に彼は包まれていた。

「姉さん・・・俺、俺やるよ!」

 ゲルハルトは国で待つ姉を思い浮かべながら、さらに一人切り捨てた。
 この首は姉にささげよう。この首は亡き父に、この首は亡き母に・・・。

 そんな風に数えながら、次々と敵を倒すゲルハルト。

 かくて、生まれた火種は今、戦争の業火となり国土を焼き尽くそうとしていた。

 

***

 翌日、王国の奇襲を受けたシュバルツバルド共和国はルーンミドガズ王国に対して宣戦を布告し、徹底抗戦の姿勢をあらわにした。対するルーンミドガズ王国は、一部の強行世論と騎士団の独断専行に引っ張られる形で全面戦争を決断。

 戦火はさらに広がっていく事となった。

 開戦より一週間。奇襲に成功したゲルハルト率いる北部国境防衛部隊は後方から追いついた騎士団の増援と合流し、ノーグロードまで攻め進み、ジュノー攻略の構えを見せていた。この時、ゲルハルトは奇襲の功績を認められて、北方攻略部隊全軍の指揮官に任命された。

 しかし、戦局の天秤はここで、再び大きく揺れ動くこととなる。

 シュバルツバルド共和国主力、飛行船部隊の動員である。国土全域から、機動力を生かして大量の兵力を終結し、ジュノーにて王国軍と会戦。

 対する王国側は、準備不足ともいえる急な開戦とシュバルツバルドの奥まで攻め入りすぎた事により、補給線が伸びきっていた。シュバルツバルドは飛行船による制空権を確保し、上空からの急襲により補給部隊を撃破し、前線を孤立化させていった。

 孤立化作戦により、王国軍は完全にその進軍を止められてしまった。

 その後、王国軍はずるずると後退し、ノーグロードよりさらに押し下がり、アルデバランの市街戦に敗北。
 さらに、ルイーナ篭城の構えを見せるも、シュバルツバルド共和国の持ち出した大型攻城兵器「ウルバン砲」の威力の前にあえなく敗退し、ルイーナ砦を放棄。

 開戦より四週間後、ついに王国軍はミョルニル山脈まで後退し、山城にて篭城。狭い山道を利用しての防衛作戦により、何とか戦線を維持しているという状態にまで落ち込んでいた。

 そんな折、王宮にて国内権力者を集めた会議が行われる事となった。
 出席者はトリスタン三世、プロンテラ騎士団長、聖騎士団長、プロンテラ大聖堂大司教、そしてそのお付きとしてプロンテラ大聖堂特別異端審問官であった。

「さて、勇んで攻め入ったは良いがこの始末、どうつけたものか」

 白髪の老人、イヴァン大司教はプロンテラ騎士団長を睨み付けた。

 騎士団長は負けじと、大司教を睨み返そうとそちらを見たが、彼の脇に建っている真っ黒なローブを頭からかぶった女が、さらに険しい目をして、今にも喉笛に噛み付きそうな形相で自分を睨みつけている事に気づき、思わず目をそらした。

 その剣幕たるや、付き人ではなく用心棒の間違いではないかと、百戦錬磨の騎士団長に思わせるほどである。

「ノーグロードまで攻め入れば補給路が伸び切るのは必然。無策に突っ込んだ騎士団に非がありますぞ。このまま攻め込まれれば、ミョルニル山脈を越えれば最早ヴァルキリーレルムが最後の砦。敵は目と鼻の先に迫っている。どう責任を取られるおつもりか!?」

 今度は聖騎士団長が、やたらと断罪的な口調で現状を説明した。その目は明らかに、非難の色を帯びて騎士団長へと向けられている。

「い、今はそんな責任の話ではなかろう!」

 声を荒げる騎士団長。

 それをトリスタン三世が手で制した。

「実は、内々に特使が来ておる。ミョルニル山脈以北の割譲を条件に戦争を終結しても良いとな」

 一同は黙り込んだ。
 それを受け入れる事は完全に、敗北である。

「そ、そんな無茶苦茶な要求、受け入れるわけには参りませんぞ!」

 騎士団長が机を激しく叩きつける。その顔には、怒りだけでなく幾ばくかの焦り、そして失策ゆえの羞恥の色が表れている。

「とはいえ、このまま戦争を続ければ、最悪の場合プロンテラまで攻め込まれることになりますぞ」

 聖騎士団長に釘を刺され、騎士団長は黙り込む。
 部屋に再び沈黙が訪れた。

「お前さんは、どう思う?」

 トリスタン三世がイヴァンを見つめた。

 イヴァン大司教は瞑目し、小さく息を吐き出す。

「ウチの、こいつに任せてもらえますかな?何とか、国境は元の位置までは巻き返さねばなりますまい」

 イヴァンは横に立つ女を見上げた。女も、それを受けて小さく頷く。

「バカな!僧侶に何が出来る!」

 憤る騎士団長をにらみつけて大司教はゆっくりと口を開いた。

「ロクに斬れぬ剣を振るうしか出来ぬそなたらに何ができる?任せておくが良い。猪武者では解決できぬ事もあるのじゃ」

 大司教は顔を真っ赤にして震える騎士団長を見て、肩をすくめて、あざ笑うかのようにカラカラと声を上げて笑った。

***

名誉と毒 後半へ