・消えた少女

 一人の少女が消えた。
 それは他愛も無い事件だった。プロンテラの貧民街に隣接した娼館の立ち並ぶ地域に住む娼婦。その娼婦の幼い娘が消えたというのだ。

 少女の名はオメガ。母の名はマルガリタ。彼女は娼婦であり、誰の子とも知れぬ子を三人今までに産み、二人の子を客の歪な性欲の餌食にされて失っている。そんな思いから、もう悲劇は最後にして欲しいと願い、三人目の愛娘にオメガ「最後」と名をつけた。

 「私はアルファでありオメガである。」そう言った人が居た。彼女はそんなものは信じなかった。この世に神などは居ない。居るならばどうして自らはこのような、地獄の底のような娼館の中で悪鬼にもまれるが如くに、毎夜毎晩犯されつづけ、父すら知れぬ子を身ごもらねばならぬのか。

 彼女は13のときに娼婦になった。

 14のときに最初の子を身ごもったとき、彼女はこれは神の神子だと信じようとした。

 それの子は齢二つにして、男の性欲の餌食となって死んだ。

 17のときに生まれた二人目の子は生まれてすぐだった。口に男のモノをねじこまれ、顎が外れて窒息死した。

 19の年に生まれた子供に彼女はオメガと名づけた。
 神などいないこの絶望の荒野のど真ん中で、この子だけは悲劇に遭わぬようにと誓った。彼女はその身を呈してオメガを守ってきていたのである。時には、客に手を上げたこともあるし、刃傷沙汰もあった。そのたびに彼女は、館の主にひどく叱られ暴力を受けたが、それでもオメガには誰一人として指一本触れさせなかった。

 神は助けてくれない。神など居ない。居たとしても居ないも同じ。
 マルガリタはそう信じていた。自らを助けるのは自らのみ。神は頼るものではなかった。神という言葉はマルガリタにとっては、心の中で風化して消えかけた希望に等しいものだった。

 居るならば助けて欲しい。だが、居ないのだから自らが戦うしかない。
 自分の人生を切り拓くのは神ではなく、己なのだ。そう信じて、彼女は戦いつづけ、オメガを守ってきた。

 そのオメガが7歳の年のある日、姿を消した。忽然と、彼女が仕事から帰るとオメガは消えていた。

 人攫いなど、この地では珍しくは無い。そういう場所なのだ。人すらも売り物になる。まして、7歳ばかりの可愛らしい少女ならば・・・買い手は幾らでもいるであろう。

 マルガリタは半狂乱となって泣き叫び、オメガを探した。

 足の裏のが真っ赤に血に染まるほど歩き回り、壊れた笛のような声になるまで大声を張り上げた。それでもオメガは見つからない。

 いくらかの人間はオメガを見ていたという。
 その言葉によれば、フードを深くかぶったウィザード風の男が連れているのを見たと言う。昼間にも関わらず、足元から暗闇に飲まれていくような絶望感に心が弱らされていく。

 マルガリタは街を幽鬼のようにさ迷う。無意味と思いつつも、オメガの名を叫びながら。

 そんな折、マルガリタは一人の女に出会った。
 彼女は聖職者だった。話によれば、それなりの地位もある人であると言うのに、その女性は毎月決まった日になるとこの娼館街にやってきて、無償で彼女たち娼婦の病気の検査をしてくれていた。

 口が悪く、目つきも鋭い。だが、彼女は時に優しく、時に厳しく、神こそ信じる気にはならなかったが、神というものも悪くないとマルガリタに思わせてくれる存在だった。

 途方にくれて街を歩いていたマルガリタを、その聖職者の女性が呼び止めた。そして、マルガリタは全ての出来事を語った。そして、泣いてオメガを助けてくれと懇願し、一つの皮袋を彼女に渡した。

 これは、自分が今まで必死に溜めてきた全財産だ。足りないと言うならば、いくばくかの指輪や髪飾りも全て売り払う。だから、何が何でも娘を助けてくれと彼女は懇願した。

 オメガが居ない世界など自分には耐えられない。オメガのことを思えばこそ、辛い仕事も我慢できた。オメガさえ帰ってくるならば、金はまた稼げばいい。

 女性は皮袋を受け取った。そして、小さくうなずく。

 ****

 

 一人の女性が消えた。

 それは他愛も無い出来事だった。プロンテラの住宅街の一角。そこに住む一人のウィザードの男。そのウィザードの愛した最愛の恋人の命が失われたのだ。

 恋人の名はアルファ。ウィザードの名はアールヴ。彼は稀代の魔術師と呼ばれ、ゲフェンの魔術アカデミーを主席卒業した人物だった。その魔力たるや莫大なもので、彼が唱えればサンダーストームもその威力たるや、ロードオヴヴァーミリオンをしのぎ、ひとたびファイアウォールを唱えれば、その火柱は天を衝く如くに立ち上る。

 その彼の莫大な魔力をしても、病の末に死んだ恋人を救うことは出来なかった。

 「死後、神の御許に返り、永遠の生命を得る。」そう言った人が居た。彼はその言葉を信じていた。だが、どうして神は我を見捨てたもうたのか。神はなぜ、自らの最愛の人を奪い去ったのか。救いが欲しい。彼は神を信じ、祈りつづけていた。いとしい恋人、アルファを返してくれと。

 彼は恋人のなきがらを抱えて一日泣きつづけた。

 これは神が自らに課した試練だと信じようとした。悲しみを乗り切ってしまえば、きっと神は自らの前に再び生きた彼女を与えてくれると信じようとした。

 亡骸を抱いて二日目にして、死臭が彼の意識を揺さぶる。

 頬をたたき、名を呼び、いくど口づけても彼女は目を覚まさない。

 三日目にして彼は朽ち行く恋人の体に防腐処置を施し、保護材をなみなみと注いだ大型の水槽に沈めた。
 神よ私をお救いください。神よ、彼女をお返しください。神よ、神よ、神よ。

 彼は家を出た。

 魔術師アールヴは家を出て数日さ迷った。彼はグラストヘイムの地下の洞窟に立っていた。寄り付く魔物を焼き尽くし、目に涙を為ながら彼は洞窟をさ迷う。

 そして、洞窟の果てに封じられた禍禍しい祭壇。彼はその前に立っていた。

 神よ、私を許したまえ。貴方はきっと手違いで私の恋人、アルファを手にかけてしまったのでしょう。私の罪をも許したまえ。彼は祭壇に置かれた一冊の本を手にとった。

 「ソロモングリモワール」

 悪魔の業が精緻に綴られているという、禁じられた書を彼は手に取った。悪魔を呼び出し、自らの願いを叶えんとするその儀式を行うために。

 彼はプロンテラに戻り、覚悟を決めた。
 たまたま目に付いた貧民街の少女に声をかける。喜び満ち溢れる楽しい土地へ行かないかい?

 アールヴはフードを深くかぶって、少女前でそっと小さな魔法を見せた。
 少女は目を輝かせてそれを覗き込む。鋭く小さな雷が一閃。少女は意識を失う。

 アールヴは彼女を布袋に入れて立ち去った。

 そして、彼は自らの家に立ち、少女を裸にすると体をしばりつけ、その腹部に鶏の血で魔法陣を書く。目を覚ましてもがく少女。アールヴは怯える彼女の悲痛な表情を見ないようにして、グリモワールを開いた。

 ガタリと、ドアが開く音がした。
 黒いフードのついたローブをかぶった人間が数人、部屋へとなだれ込んでくる。
 刻まれた紋章は教会のものだった。アールヴは身構えて魔法を詠唱する。

 ローブの集団の先頭に立っている者が「待て!」と叫ぶ。鋭い女の声。木管楽器にも似た、よく響く力強い声。アールヴはそのまま動けなくなった。

 フードの下で緑色の瞳が揺れていた。
 「我ら、プロンテラ教区、特別異端審問官。不幸なる貴方を救いに参りました」

 いぶかしむアールヴに、女は口元に薄笑いを浮かべて近づいてきた。

 「我ら、神に仕えしもの。汝、罪を犯してまで何をしようというのだ?」

 アールヴは彼女をにらみ返した。
 自分は今まで神を信じて生きてきた。こうしていられるのも神のご祝福故だ。だが、神は私から恋人アルファを奪ったのだ。これは何かの間違いだろう?

 神よ!居るのならば彼女を生き返してくれ!幾度祈ろうとも祈りは通じぬ。ならば、それならば私は悪魔を呼び出してでも救うのだ。私はアルファを救う。

 必要なものは全てそろった、そして今から私はお前たちを殺して、彼女を生き返す。

 アールヴは一息にそう言って女をにらみつける。
 「一生追われることになるぞ?」

 女は静かに言った。

 アルファが居ない世界など自分には耐えられない。アルファのことを思えばこそ、私はどんな罪をもかぶろう。アルファさえ帰ってくるならば、どんな場所でも私は生きていける。一生逃げ切ってみせる。

 女は胡散臭く笑ってアールヴの肩をポンとたたいた。

*****

 「我ら、特別異端審問官。不幸なる貴方を救うために、力を尽くしましょう」

 緑の目をした女はアールヴに優しく微笑んだ。

 傍らにおかれたグリモワールを手にとって頷く。
 「ほう、なかなか…写本にしてはマトモな出来だ。そうそう、私も持っているのだよグリモワールの正本をね」

 女は懐から一冊の真っ黒な書を取り出した。
 「生き返したいのだろう?」

 漆黒の書を開き、笑う女にアールヴは思わず詰め寄った。
 どうして、この人はこんなものを持っているのだろうか。そんな疑問はもはや湧かなかった。これこそが神の思し召しなのだ。彼にはその女性が希望に見えた。一筋の希望の光のように感じられた。

 神にしてみれば、悪魔も天使も思いのままのはず。ならば、こうして神の使者が恋人を生き返すためにやってきてくれたのだと思えば不思議は無い。

 神よ、私を救いたまえ。

 アールヴは今一度、深く祈った。

 「そうそう、お前の写本は間違っているからな…。魂を呼び戻す揺り籠として、処女の子宮が居るのだろう?かっさばいて引きずり出す・・・と、あるな」

 裸の少女目に恐怖が浮かぶ。

 「お前のさらったこの少女の名前はオメガ。貧民街の娼婦の娘だ」

 聖職者であるはずの女は冷酷な笑みを浮かべて、裸の少女の股間をまさぐった。指が食い込み、少女の目に涙が浮かぶ。猿轡の下からうめき声が漏れる。

 「ふむふむ・・・」

 女は股間から手を引く。

 「どうやら本当に処女だったようだな。くっくっく。客でもとらされてんじゃないかと思ったが、あの女、本気のようだな」

 とても聖職者とは思えぬ所業にあっけに取られているアールヴを尻目に、彼女はうっすらと粘液のついた指でグリモワールの正本をなで付けた。

 「来たれ」

 短い詠唱だった。飼い犬でも呼ぶかのような、あっさりとした言葉。

 「うわあああああああああああああああ!」

 アールヴはしりもちをついて怯えた。
 グリモワールを持った女の横に、悪魔が浮いていた。死人の肌色をした女が血の涙を流している。その手には腐りかけた胎児が抱かれており、まだ切れていないへその緒が、死人の女の切り開かれた腹へとつながっている。

 自らの胎児を抉り出した悪魔。その目がドロリと彼を見つめた。
 全身の血液が凍りつくような恐怖だった。指一つ動かすことがかなわない。時が凍り付いていくような感覚とともに、激しい耳鳴りに襲われる。

 「おやおや、悪魔が恐ろしい・・・か。自ら呼び出そうとしていたくせに」

 意地悪く笑いながら、女と悪魔がアールヴへ近寄る。周りのローブを着た仲間たちは平然とそれを見ていた。

 「冥府の底へと参ろうではないか、貴様の恋人とやらを呼び戻しにな」

 女はやはり胡散臭い笑いを浮かべた。だが、アールヴにはもう見えていないのだ。闇の底から聞こえてくる懐かしい恋人の声が、彼を突き動かしていた。

 

 ***

 冥府の底へと下る。
 悪魔の切りひらかれた腹の中の闇がアールヴと緑の瞳の女を飲み込む。

 気が付けば、二人は荒れ果てた荒野に立っていた。

 「ここは・・・?」
 「冥府。お前の恋人もここに居るはずだ」

 女はツカツカと歩き出した。時を刻むように正確な歩調で彼女は冥府の奥へと下っていく。アールヴはそれに続く。闇の奥に待つ恋人を目指して。

 荒れ果てた大地を分かつ轟々と音を立てる川が現れる。
 その岸に二人は立った。向こう岸には幾人もの人が歩いている姿が見て取れた。

 「貴様の恋人はいるか?」

 そう問われて目を凝らすと、向こう岸でこちらに手を振っている女性が目に付いた。
 「いた!いました!」

 喚起の声をあげるアールヴ。岸につながれていた小船へと風の如くに駆け寄って乗り込む。チャポンと水音を立てて船が揺らいだ。

 ローブの女もその船へと乗る。

 「行くぞ」

 小さく静かに、本当に良いのか?と問うような声だった。

 アールヴは力強く頷いてオールを漕ぐ。
 懐かしい声が聞こえてくる。

 「アールヴ!ダメ、来たらだめ!」

 それでも彼は船を漕いだ。必死だった。目の前にいる恋人の姿。それがまた突然に消されてしまいそうな不安に襲われて、アールヴは必死で船を漕いだ。

 今度こそ絶対に離さない。

 向こう岸へと辿り着くと、アールヴは船を飛び降りて獣のようにアルファへと駆け寄った。
 「アルファ!アルファ!良かった・・・ボクといっしょに帰ろう!」

 金糸のような艶やかな髪も、陶器のごとき白い肌も、宝石の輝きをたたえた青い瞳も、小鳥のような声も・・・全てが昔と同じまま。

 アールヴはアルファへと手を触れた。

 ボトリ。

 鈍い音。
 世界を分かつ鈍い音がした。腐り落ちた指が大地へと吸い込まれていく。白い肌が茶色く崩れていく。金色の髪が抜け落ちていく。

 眼窩が落ち窪み、目玉が腐り落ちる。

 それは、違う世界に分けられたもの達を切り裂く悲しい境界。

 音を立ててアルファは崩れる。
 声を上げてアールヴは泣き崩れる。

 腐ったアルファは、糸でも引きそうなほどネバついた声で言う「来てしまったのね、アールヴ。でも、ありがとう」

 「アルファ・・・アルファ!帰ろう!生きて帰ろう!君の体はボクが大事に保管してある!だから、今一度現世に・・・」

 ギイ

 きしむ音。船のきしむ音。
 それは、死者の国と生者の国を分かつ音。

 ローブの女は船を漕いでいた。

 「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 叫んだ刹那、大地が音を立てて引き伸ばされ、彼と川の前に切り立つような石の壁がそそり立つ。川はもう見えない。

 切り立つ岩肌の絶壁は牢獄の様相を呈して、彼の眼前を阻む。

 「ようこそ・・・アールヴ」

 腐ったアルファの声。
 泣き叫ぶアールヴの声がゴボゴボと濁っていく。どうして、こんなことになってしまったのか解らなかった。

 大地についた膝が、ぐしょりと音を立てて砕けた。

 顔を覆った手に、皮膚がついていた。黒く腐った皮膚が。
 いとしい恋人に触れる。腐肉が混ざり合っていく。アールヴは恋人を抱きしめた。もう、自分の抱きしめているソレが何なのかすらわからなかった。

 自分が何なのかすらも解らなかった。どうして、ここにいて、何をしているのかも解らなかった。

 そのとき、ローブの女は舟を漕いでいた。
 「彼女とならば、どんな場所でも・・・と、言っていたろう。願いは確かに聞き入れた」

 ギイと、船を漕ぐ音がする。
 ひと漕ぎごとに遠のく死者の国。

 その音が、死者を遠ざけていく。生きようとする意思。自らの力で前へ進もうとする櫂のひと漕ぎの音。

 その音を忘れたものは、この川を引き返すことは出来ない。

 

***

 アールヴの家の一室でローブの女は目を開けた。一瞬にも、永劫にも思えるゆがんだ時間を感じていた。

 目の前に立っていたアールヴが大木が折れるように、ゆっくりと傾きバサリと倒れたかと思うと、ローブの中から砂が溢れ出した。

 「彼の願いは叶えた」

 女はグリモワールを懐にしまい込んで静かに言った。その目はどことなく悲しげでもある。
 「それにしても・・・彼はずいぶんと怯えていたが、よほど恐ろしい悪魔が見えていたのだろうな。お前たちには何に見える?」

 背後の仲間に問う。

 「私には、六対の翼を持った天使に見えます」
 「私には優しい老人に見えます」
 「私にはただ光っている塊に見えます」

 女は満足そうに頷いた。
 「人によってずいぶんと違うものだなまったく面白いものだ」

 彼女は皆の見ている空間を見つめて、心の中で言葉を続ける「私には見えぬのだよ。何もな」

 女は、裸の少女に近寄って、縛られている縄を解き、猿轡をはずした。
 「先ほどは脅かしてすまなかったな。もう大丈夫だ。ところで、お前には何が見えた?」

 「何も」

 少女は怯えた目で答えた。
 小刻みに震える肩を、女は優しく抱きかかえた。

 「そうか・・・何も見えなかったか。天使も、悪魔も?」

 「天使や悪魔は、居るかもしれないから楽しいんだって母さんが言ってた。信じることと、頼ることは違う。だから私は神様なんて居ないと思う。居ても、助けて欲しくなんて無いの・・・だから見えないのかな」

 オメガの言葉に女は目を細めた。
 緑色の目が優しく光る。彼女はオメガを抱き寄せた。

 「真理を知るものには、まやかしの虚像は見えない・・・同じモノも角度を変えれば悪魔にも天使にも見える。何も見えぬのは、お前が何にも染まらず真実を見つめているからだ」

 彼女は少女に金貨のつまった皮袋を手渡した。
 「これを持って家に帰りなさい」

 少女はいぶかしげにそれを受け取る。
 「それから・・・私のところで働くつもりは無いか?」

 シンと耳の痛むような静寂が部屋に満ちていた。
 少女はその水のように澄み渡った目で、眼前に立つ緑の目の女を見上げていた。

 「あの・・・それは聖職者に・・・ということですか?」

 「そうだ」

 「でも私、神様を信じたり、頼りにして祈ったことは一度も・・・」

 「私もだよ」

 緑の目をした女は悪魔のように朗らかに笑い、オメガは天使のように微笑んで頷いた。