-枕かへしの見る夢 2-

白い狂気

<昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ぬ。つひに馬と夫婦になれり。ある夜父はこのことを知りて次の日に娘にはしらせず、馬を連れ出して桑の木に吊り下げて殺したり。 遠野物語 柳田國男>

 

 天気が良い日というのは、特に理由などなくとも、気分もつられて青々と晴れ渡るものである。陽光きらめく天空を見上げ、目を細めたその男も例外ではなかった。

 清潔感ある短さの銀髪が、陽光をキラキラと反射している。もっとも、生来髪質が硬かったせいか、彼の髪は重力に屈するということをせず、それぞれ生まれ持った方向へ向かって自己主張をしている。

 強いて言うならば、散切り頭と言うべきかも知れない。

 圧倒的な意志の光を宿した目と、その上に構える、これまた気の強そうな眉毛は彼を見るものに、真面目そうだとか、誠実そうだといった印象を与えるだろう。

 ただ、そうした意志の強さを感じさせる目鼻立ちとは裏腹に、顔の輪郭はほっそりとしており、あまり男臭さを感じさせない、雅さをも彼は兼ね備えていた。

 プロンテラの北西の一角。ここには、比較的富裕な階層の人間達が居を構えている。革命によって、これまでの貴族制の階級制度は崩壊したものの、植民地経営などの新たな事業で富を築いた人間達によって、次々に新たな屋敷が建てられている。

 その中で、彼はもっとも歴史ある家の一つの前で立ち止まった。

 故・バーソロミュ・ロージアン侯爵邸であった。
 革命を推進し、革命のために死んだ貴族だった。彼はその家の門を開けて、芝生の茂る庭へと足を踏み込んだ。

 萌芽の季節に陽光を浴び、大地から生き生きと伸びだしてくる芝は他の時期よりも、コシが強いようで、踏みしめるたびに、まるで霜を踏むかのようなシャクシャクという小気味良い音が聞こえてくる。

 そして、草は踏まれてもつぶれることなく、再び天を目指して起き上がってくる。

 家屋の門の近くまで来たところで、家の中からもう住み込んで随分長くなるメイドが出てきた。
 ちょっと埃っぽいような色の亜麻色の髪の毛を風に揺らしながらモーリスに歩み寄ってくる。
 「モーリス様。お帰りなさいませ。」

 男はその声を聞くと、にこやかに微笑んだ。
 「ただいま。留守番ご苦労だったねガートルード。」

 上着を脱ぎ、ガートルードと呼んだメイドに渡しながら男、モーリスは屋敷の中へと入り、リビングのソファへと腰をおろした。

 彼は、モーリス・ロージアン。プロンテラ革命に殉じたバーソロミュ・ロージアン侯爵の長男にして、ロージアン家の跡取息子である。

 上着を持って奥へと消えたガートルードだったが、モーリスが何も言わなくとも、彼女はミルクと紅茶を50%の割合で作ったミルクティーを持ってすぐにリビングへとやってきた。

 ここ数年間、プロンテラ騎士団へと勉強を兼ねて住み込みで修行に行っていたため、この家に帰ってきたのはほんの半年ほど前だったが、わずか一ヶ月ほどでガートルードはモーリスの動作から、彼がその時欲しているものを完全に見抜くようになっていた。

 彼は本当にこの家に来たばかりの時の、皿割女王の異名を取ったガートルードしか知らず、そんな彼女の成長ぶりに驚嘆したものだった。

 モーリスが紅茶に口をつけて、一口飲んだ後、ゆっくりと息を吐き出して、カップを皿の上に戻すと、そのタイミングに完全にあわせてガートルードが話し出す。

 「モーリス様。それで、首尾のほうはいかがでしたか?」
 「ああ。大丈夫だ。コンロンの方のコネクションを使って、新しい茶の輸入ルートを確保したよ。」

 モーリスはカップを持ち上げて、その中の液体を見つめると、もう一口ミルクティーを飲んだ。
 現在、プロンテラでは植民地で採れるお茶の需要がうなぎのぼりに増えており、それの輸入はかなりの富を生む産業となっていた。

 革命によって領土を失った貴族達が没落していく中で、モーリスが継承したロージアン家だけは、残された遺産を大胆に使い、植民地事業に参入。現在では国内で屈指の茶の輸入業者となっている。

 父亡き後、この若き主はロージアン家に再び隆盛をもたらしていた。

 リビングのドアを開けて、一人の少女が部屋に入ってくる。
 モーリスと同じ色の銀髪は、彼とは対照的にやわらかく、そして長く、一歩歩くごとにふわふわと空中を舞い遊ぶ。だが、その目に宿った意思と理知はモーリスに勝るとも劣らない。

 「兄上。お仕事ご苦労様です。」
 少女はニコリとも笑わずに、無骨な言葉遣いで兄をねぎらった。一見すれば、可憐な少女なのだが、彼女からはどこか陰のあるオーラが発されている。
 つい一年前、革命によって親しくしていた親友と、父親を失っているのだから、ムリもないかもしれない。

 もっとも、話し方に関しては、本人も多少は意識しているのか、若干やわらかくなった節がある。

 だが、その手に持たれている、純粋理性批判と題された随分と難しい本は、そうした彼女の最前の些細な改善など帳消しにするほど、近づきにくさを強めている。彼女は外界というものに、あまり興味を持っていない。彼女が欲するのは本や資料が与えてくれる様々な知識であり、内的な世界に大きく傾倒していた。

 「イロリナ。相変わらず勉強三昧かい?そんなに賢くなってどうするんだ?」

 イロリナと呼ばれたモーリスの妹は、兄の向かいのソファに腰をおろした。
 「それでは問い返しますが。兄上こそ、今の生活を維持する以上のお金を稼がれてどうするのです?」

 いつの間に作ったのか、湯気の立ち上るカップを手に、ストレートティを持ってガートルードがやってきて、それをイロリナの前に置いた。

 「金か・・・難しい切り替えし方をするね。僕は家族のため、そして僕に宿っている祖先の英霊達の名誉のためにも・・・ロージアン家を守るだけさ。それには先立つものが必要だ。あまり、意味という意味は無いね。」
 「そうですか。兄上。では私が勉強するのもそういったものです。意味らしい意味はありません。意味ある、役立つことをしようと思ったら、機織でもしたほうが遥かに優れていますよ。」

 イロリナは目の前の紅茶を手にとって、一口飲んだ。

 「よくそんな苦い物がのめるね。」

 それを見て、モーリスは肩をすくめて言った。

 「兄上こそ、紅茶にミルクなど入れて・・・紅茶が可愛そうです。」
 「そんなこと無い、彼らは運命に導かれた恋人同士だよ。一緒にいるのが幸せに違いない。」
 「兄上は随分とロマンチストですね。」
 「お前は冷たすぎるんだよ。じゃあ聞くが、その紅茶はイロリナにとっては何だい?」

 言われてイロリナはカップを手にとって、紅茶にじっと視線をおとした。

 「・・・そうですね。これは、私がお茶と呼ぶものです。私はこれをお茶であると主観的経験によって知っています。だから私にとってはお茶です。兄上にとってのお茶ではありません。」

 「なんだか、答えになっていないようだけど・・・僕にとってはこれがお茶ということだね。」

 そう言ってモーリスは甘めのミルクティーを飲んだ。
 白褐色のその液体をイロリナは本当に気持ち悪そうな目で見ている。

 「兄上。前から一度聞いてみたかったのです。革命は・・・何だったと思いますか?」
 「珍しいことを聞くね。どうだろう。僕はまだ、そんなことを判断する段階だとは思わないよ。確か、前にイロリナは言っていたな・・・革命もまた戦争だと。国と国がぶつかれば戦争、個人と個人がぶつかれば喧嘩。集団と集団がぶつかれば紛争。そうして、国民と国家がぶつかって、革命となる。だったら、そんなに特筆すべきことでもない。過去に幾度となく繰り返されてきた事が・・・少しだけ変化しただけさ。」

 薄いレースのカーテン越しに差し込んでくる日光の作り出す不規則な陰を見つめながら、イロリナは兄の言葉を今一度かみ締める。

 戦争だと・・・解っているつもりだった。だから、いかに清廉潔白な理想をとなえ、高潔に生きようとも、死ぬときはほんの一発の流れ弾が、気まぐれに飛んできただけで死ぬ。戦争だと思えば仕方ないとは思うが、死んでいった友は、理想の為に戦った。

 理屈では理解できても、それを超える何かが、納得することを妨げる。今まで味わったことの無い不思議な感覚だった。

 それは、傍観者でありつづけようとした彼女が、いつのまにか、その悲劇の役者の一人となっていたからでもある。

 イロリナは小さくため息をついた。冷静な観察者であり、傍観者であろうとした彼女は現在は、その地位を失ってしまっている。

 「しかし、革命で世の中色々変わった。が・・・前よりも安定性を欠いているのは事実だな。」
 「安定を欠いている?」

 イロリナは残り少なくなった紅茶を飲み干して聞き返し、モーリスは少し紅茶のカップに視線を落として考えると、残り少ないミルクティーをチマチマと飲みながら返答する。

 「ああ。安定を欠いているさ。国家という箱に押し込められていたときは、人々は完全に固定されていた。だが、今は・・・人々は箱を失い、自由に右へ左へと揺れ動いている。その、人の心のうろに付けこんで、いろいろなものが生まれているよ。たとえば・・・最近では社会主義などという理想論としか思えない主義も出てきているし・・・そして何より、淫祀邪教の類が生まれているようだね。」

 「社会主義に淫祀邪教・・・。どちらも幽霊みたいに胡乱な存在ですね。」
 「僕は人が胡乱にされてしまったのだと思うよ。革命によって、それまでの定位を失い、人々はその存在を胡乱なものにされてしまった。だから、そんなふうにになってしまった人々は、胡乱な思想や、胡乱な宗教に吸い寄せられていく。人は似たようなものの集団にいるのを心地よいと感じるからね。」

 イロリナは淫祀邪教というものが、どういうものかは明確には想像がつかなかったが、社会主義という言葉には少なからず聞き覚えがあった。

 私有財産を廃止して平等で幸福な世界を目指すなどという、子供だましのような理論の理想主義だとイロリナは感じていた。

 少しだけ開いた窓から、ほんの気まぐれな突風が舞い込んで、レースのカーテンが部屋の中でパタパタと舞踊る。

 しばらく、イロリナもモーリスも黙ったままだった。

 「さて・・・兄上。私は少し出かけてまいります。」

 イロリナは憮然としたまま椅子から立ち上がった。

 「ん。ああ、墓参りか。今日は、あの子の月命日だね。お前にしては随分と、感傷的だな。」
 「それについては否定しません。私もどうしてこんな事したくなるのか自分で解りませんから。」

 イロリナはそのまま、ガートルードに出かけてくると言って家から出て行った。

 春の日差しは柔らかく、それを感じながら歩くことができることにイロリナは感謝していた。閑静な住宅街の碁盤の目状の町並みの中、遠く聞こえていた町の喧騒が、だんだんと近づいてくるのが解る。

 血なまぐさい革命のときを経て、この町、この国は再び生を得た。イロリナは賑やかな中央通りへと出て、町の中央の広場へと向う。

 はるか長い長い時を経て、建国の昔よりこの地を見下ろしていた騎士の銅像が、今日も広場を見下ろしている。そんな銅像は時の流れに取り残されたさらし者のようにも思えるが、彼女にはその銅像がたまらなく羨ましく感じられた。

 悲しむことも、苦しむことも無く、ただただ本当の傍観者として彼は時の流れを、これまでもこれからも見つめてゆくだろう。

 既に、傍観者としての立場を失ってしまった自分には、それが羨ましくて、羨ましくて・・・だから、今日も銅像をにらんでいた。

 そんな余所見をして歩いていたものだから、ついつい人にぶつかりそうになる。

 ふわりと、珍しい東方のお香の香りをまとった黒髪の女性と、高級そうな純白の服をまとった赤茶色の髪の毛を結い上げた女性だった。

 どこか、雑踏の中から隔離されたような高貴さを感じるものの、彼女らは楽しそうに露天商からトマトを買ってはしゃいでいる。

 少しだけそんな人間を羨ましいと思う。あの友が生きていれば、自分もそうしていられたかもしれない。そうであったならば、自分も傍観者ではない、一人の役をもった人間として生きることを楽しめたかもしれない。

 イロリナは露天で、花を買うと大聖堂の裏手にある墓地へと向かう。
 そこに、彼女の親友は埋葬されていた。

 何もない。墓場には何も無いと感じるが、そこには別の時の流れがるとも思う。
 物質的な利益も意味も何も無いが、ただただそこには、あの銅像と同じように、すこしだけ古い時間の流れが息づいている。

 イロリナは花束をささげ、祈る。
 使者の冥福など祈る意味はないと思っていた。死んだら終わり・・・祈りの届く世界などどこにもないと思っていた。

 だが、こうして祈っていると実感することができる。何の意味も無いとしても、友の冥福を祈ることで、自分が救われるような気がする。祈りは使者のためではなく、自分への救いだ。

 イロリナは目を開けると、墓石に別れを告げて、ふたたび今という時の流れに身を戻す。

 墓地の芝生を踏みしめ、足の裏にその感触を感じる。

 何か、突然不思議な考えが頭によぎる。道に迷いたいとイロリナは思っていた。
 少し知らない路地に思うままに足を進め、知っている街の中の見知らぬ路地で、道に迷うということは思いついた瞬間には決心するほどに、魅力的な選択肢だった。

 イロリナは大聖堂から大通りに出ず、住宅街の路地をくねくねと、思うがままに歩いた。密集した建造物の直線に切り取られた青空が、まるで額縁に入った絵画のようで、それを見ていると、空を額縁に叩き込んで、自分の所有物にしたような感覚がする。
 
 そんなふうに上を見て歩いていたせいで、イロリナはドンという衝撃と共にしりもちをついてしまった。
 進行方向を見ると、自分と同様に一人の女性がしりもちをついている。

 くすんだ茶色い髪の毛を腰まで伸ばした女性が、呆然としたようにこちらを見つめている。なんだか、存在が希薄というか、欠けてしまっているような危うさを感じずにいられない、不思議な儚さを持っている。

 そのまま消え入ってしまうかと思うほどのその女性は、プリーストの服を着ていた。

 「あ、あのごめんなさい。私、余所見をしていて。」

 「・・・・・」

 真っ黒な穴があいたような、光も、意思も吸い込んで無にしてしまいそうな瞳が自分をとらえる。イロリナはその不気味なほどの虚無に身震いした。何もない、この人には何も無い・・・。

 彼女には生も魂も無いような気がしてきて、イロリナは急に恐怖を感じてきた。

 太陽が雲の中に姿を隠し、路地に薄暗い影がふりかかる。
 何もない女は何も無い瞳で、イロリナを見ている。

 「あの・・・大丈夫ですか。」

 恐る恐る声をかけてみるが、その女はまるで無反応でこちらを見ている。
 「あなたは?」

 小鳥の囀るような、高く張り詰めた声で、女は問い掛けた。

 「え?わ、私はイロリナと申しますが。」

 「イロリナ。あなたはイロリナ。私は?」

 イロリナは問いかけの意味を理解できず、そのまま答えに窮してしまった。二人とも、地面にしりもちをついたまま、その空間は時間の流れから隔離されたかのように動きを失う。
 「えっと・・・あなた?」
 「私はあなた?」

 まったく意味の通じない会話でイロリナは戸惑いながらも、なんとか現状を整理しようと試みるが、虚無の宿った真っ黒な瞳で見つめられると、心がざわついて不安になって、まったく集中できない。

 「フランチェスカ様!こんなところにいらっしゃったのですか!」

 張り詰めて動きようを失っていた空気は、路地から駆け出してきた男によって再び時の流れのなかに放流された。

 「フランチェスカ?」

 呆けた女はまるで他人事のように出てきた男に問い返した。
 「そうです!貴方です。フランチェスカ・ザベリオ様!」

 瞬間、彼女の死んでいた瞳に光が宿ったかのように見えた。
 「・・・ええ。そうね。失礼しました。イロリナさん大丈夫ですか?」

 フランチェスカと呼ばれた修道女は服についた埃をはたきおとして立ち上がり、イロリナへ手を差し伸べた。

 「あの・・・」

 「イロリナさんと言うのですか。フランチェスカ様は少々体が弱く、時々日光に当てられて前後不覚に陥るのです。ご迷惑をおかけしたようで申し訳御座いません。」

 さきほど飛び出してきた男は、イロリナに深々と頭を下げた。
 彼もプリーストの服を着ているのだが、どうもこの男も、フランチェスカと呼ばれた男も、服についている十字の紋章や、首から下がっているロザリオの形状がプロンテラ大聖堂のソレとは大きく異なっていた。

 十字が交差しているのではなく、横の棒とクロスするところで縦の棒がとまり、いわゆるT字型をしている。それを見た瞬間、彼らがいわゆる異端であることを察して、イロリナはロザリオから目線をそらした。

 「どうも、失礼いたしました。」

 柔和な笑みを浮かべて謝るフランチェスカの表情をじっと見つめて、イロリナは自分の記憶に対する信用度が下がっていくのを感じていた。

 慈愛に満ちたその優しい瞳はまさに聖職者のものであり、先ほどまでの絶対の無が巣食っていた黒い穴のような瞳とは別物になっている。

 「いえ、こちらも余所見をしていて・・・申し訳なかったです。」

 意識せずに、定型文のような返答をしている間も、イロリナの意識は完全に様々な思案と考察、そして観察に費やされていた。
 この男達は何者か。フランチェスカ・ザベリオと呼ばれた女が、この異端における何者なのか。そして、さきほど見たフランチェスカはいったいなんだったのか。そして謎の問い「私はあなた?」。

 脳の奥でチリチリと火で焼かれるような感覚をイロリナは感じている。解消しないパラドックスを前にして、思考は限界まで早められた速度で回転しつづけていた。

 「では・・・我々はこれにて失礼いたします。」

 男はもう一度深く一礼して、フランチェスカを先導するように路地の奥へと消えていった。

 「フランチェスカ・ザベリオ。T字の十字架。」
 記憶に焼き付けるかのように、ゆっくりと言葉をかみ締めてつぶやくと、イロリナはだいたいの方向の見当をつけて、一直線に路地を抜けて、大通りへと出た。

 丁度、雲間から再び太陽がその微笑を見せようとしていた。薄暗かった地面に、光が生まれそして影が濃くなってゆくその様は、さながらフランチェスカの瞳の変化のようで、不気味にも感じられた。

 ふと、さきほどの兄との会話が頭によぎる。

 「淫祀邪教・・・」
 街の雑踏を見つめながら、イロリナはそんな単語をつぶやいた。

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 「光輝の会?」

 モーリスは今日二杯目の紅茶を飲みながら、目の前の男に聞き返した。

 「ああ・・・最近、街じゃ割と見かけるT字の十字架を使った異端教ってところかな。」
 手にいくつもの火傷の痕のあるこの男は、彼の無骨な腕でもつと小さく見えてしまうカップをもって、紅茶を一口飲んだ。
 どうしたら自然の造詣がここまで角張った直線を生成するのかと思えるような無骨な顔が、紅茶の香りと味に誘惑されてか、一瞬だけほころんだように見えた。

 ロージアン家は、イロリナが出かけた直後に、一人の来客を迎えていた。男の名は、トリストラム・ホールグレン。

 精錬技師として名をはせたホールグレン家の嫡男にして、かつては騎士を志し、モーリスとはプロンテラ騎士団の竜虎とまで言われたライバルだったが、脚に故障を負って、トリストラムは騎士の道を諦め、その命を支える刀剣の製作に活路を見出した男だった。

 その結果、東方の国、アマツの名門鍛冶へと修行へ出かけ、炭素量を調整した複数の鉄、玉鋼を重ねて武器を錬成する折り返し鍛錬法と呼ばれる武器製造を身に付け、今では王国にその人ありと言われる名鍛冶となっている。

 切れ味もさることながら、大きく波打った綾杉肌と呼ばれる刃の美しさに定評があり、国内外を問わず彼の銘の入った刀剣の蒐集者は数えればきりが無い。

 その男が、このロージアン家ですこし沈み込んだように、紅茶を飲むのもそこそこに、暗い面持ちでモーリスと向かい合って話していた。

 「で・・・弟のヴィクターがその妙な宗教にハマっちまって・・・。装具職人のアイツがいないと、俺の刀は完成しないワケよ。で・・・光輝の会は武器は穢れを呼ぶとか言われて、弟は装具を作ってくれないんだ。」

 「ふーん。ボクは宗教とか思想とかは、よくわからないよ。妹は詳しいみたいだけど。でもまあ、キミが言うことを総合して言えば、弟が妙な宗教にハマってるから、ボクに力を貸して欲しいと・・・。」

 「面目ない。そのとおりだ。」

 稀代の刀匠はまったく謙虚で、すこし情けないほどに思えてしまうほどの姿勢で答えた。

 気まぐれな春風がふっと室内に吹き込んで、カーテンが揺れる。その、さらさらとした音を聞きながら、モーリスはしばし目を瞑り考えていた。

 「ボクは・・・。あまり揉め事には介入したくない・・・けど、ボクはね。トリストラムの作る刀のファンの一人だよ。できることならば何でもしよう。おい、セルバンテスいるかい?」

 モーリスに呼ばれるやいなや、恭しく一礼して、部屋のドアから老執事が入ってくる。ピシリと着こなした服がとても似合っていて、実直そうな目や、豊かな灰色の頭髪も堂に入っていて、まさに執事のステレオタイプのような男だった。

 「お呼びでしょうか。」

 「うん。セルバンテスは何か、光輝の会とかいう新興宗教だか異端教だかに関して知らないかい?」
 「多少ながら心得ております。フランチェスカ・ザベリオなる女性を中心とした、神秘主義的な面を前面に押し出したいわゆる異端教です。」

 「あの・・・私、知ってます。」

 セルバンテスのセリフに割り込んで、おそるおそる声を出した主は、メイドのガートルードだった。普段とは違って少し躊躇するように、手で自分の髪の毛をいじりながらガートルードは恥かしそうに口を開いた。

 「実は・・・フランチェスカ様の占いはとても当たるって評判で、この間・・・お友達といってまいりました。」

 「なんだと!それは本当か!?」
 はじき出されたようにトリストラムは椅子から立ち上がってガートルードへと詰め寄った。

 「は、はい。でも知らなかったんです。そんな異端教だなんて。私はただの占い師さんだと思ってました。」
 あまりのトリストラムの剣幕にびっくりしながらも、ガートルードは主の手前、家のものが恥を晒すわけにはいくまいと、毅然として答えた。

 「いや・・・すまない。君を責めているわけじゃないんだ。」

 「ガートルード。とりあえず、状況を知らないことには始まらない。ボクとトリストラムを、その占いをやっていた場所へ・・・連れて行ってくれないかな。」

 モーリスがそう言うやいなや、ガートルードはそうすることをすっかり体が覚えてしまっているのか、上着を着せて、剣を持たせ外出のための準備を手早く済ませた。

 四角い窓枠に切り取られた日光が、舞い踊るカーテンによってゆらゆらと不定形の影を部屋の中へと落としつづけている。

 トリストラムは、残りの紅茶を飲み干すと、まだ一度も血を吸ったことのない護身用の脇差を手に取った。

 街に出た彼らは、どちらかといえば奇妙な一行だった。
 メイドの少女を先頭に、大の男二人がその後ろを付いてい歩いている。馬車で乗り付けては目立ちすぎるということで、ガートルードに道案内をさせながら、モーリスとトリストラムは歩いているわけだが、余計に奇妙な集団に見えないことも無かった。

 プロンテラの街はすっかり過去の栄光を取り戻したかのように見え、行き交う人々の顔にも生が満ち溢れている。

 石畳を踏みしめる足音の波が、まるで街の鼓動のように思える。この鼓動で、街はその血管たる道路に、血液たる人間を循環させているのだ。

 人々は血液が酸素を運ぶように、街の肉たる産業を生かす酸素、つまり金を運び、それが循環してこの市場経済は成り立っていた。

 そんな血液の流れに乗って、一行はプロンテラの東門付近の少し寂しい一角へと歩を進めた。日光の光が、さえぎられてしまう薄暗く細い路地と路地の辻を幾度か曲がり、そして辿り着いたのは古めかしい家屋だった。

 伝統的なプロンテラの様式の建物で、頑丈そうな石造りの壁と、独特の色の屋根を持っている。

 「ここ・・・です。」
 「ふむ。君は占いのために普段はこんないかがわしい界隈に来ているのかい?」
 「ご・・・ごめんなさい。」

 少ししゅんとしてガートルードは素直に謝った。

 「ここに・・・ヴィクターがいるかもしれないのか。」
 トリストラムは憎々しく扉を見つめて呟いた。

 「ガートルード。この中はどうなっている?」
 「はい。礼拝堂のような形になっています。」
 「よし・・・入ってみよう。」

 モーリスは躊躇しながらも、堂々とドアノブに手をかけて薄暗い建物の中へと足を踏み込んだ。中に一歩踏み込むと、生物特有のむっとするような湿度と温度と共に、人々のざわめきが溢れ出してきた。

 「・・・ち・・・。人がいるか。」

 「あの、初めての方ですか?」
 一応一人前にアーチ建築の礼拝堂風の建物の奥から、長い炎のような紅毛の女性がしずしずと歩み出てきた。
 少し伏目がちの切れ長の目から伸びたまつげは長く、すらりと伸びた長身とそれを包み込む、風のように柔らかそうな生地のワンピースが不思議な優雅さを持っている。

 「あぁ・・・少し興味があって来たのだが・・・入ってもいいかね?」
 モーリスは辺りの様子をうかがいつつ慎重に答えた。
 「ええ。よろこんで。今日はこれから、フランチェスカ様のお話があるのです。よろしかったらいかがですか。」

 「そうだな・・・。よろしく頼む。」
 「はい。私、こちらで助祭を行っておりますアリスティア・レストナックと申します。よろしくお願いします。」

 アリスティアは蝶が舞うような、軽やかで品のある挨拶をする。平民にしては妙になれているというか、不思議な堂に入った自信の感じられる動きだとモーリスは感じた。

 モーリスは名乗るべきか少し躊躇する。ここで、モーリス・ロージアンを名乗るのは得策ではないように思える。

 モーリスは後ろに控えているトリストラムとガートルードを振り返ると、一瞬だけめくばせをしてからアリスティアの方へと向き直った。

 再び、アリスティアの目をみた瞬間にモーリスは例えようのない不安に襲われた。強いて言うならば、宝石のように眼窩で光るその瞳は、疑うことを知らない恐ろしいほどの純粋さを持っているように思えた。目配せしたのがバレても仕方がないかとモーリスはある程度の覚悟をしていたが、その瞳は未だ善悪の判断すら知らず、人間の作り出した杓子定規に汚染されていない赤子のようですらある。

 「よろしく頼む。僕は、クリス・アルジアンこっちの娘は、妹のガートルード・アルジアンだ。」
 「ガートルード・アルジアンです。よろしく。」

 ガートルードはアリスティアの圧倒的な気品に触発されたのか、普段でもそんなふうにはしないような優雅な動きで挨拶をした。

 が・・・なんだか普段からやりなれていないせいか、アリスティアに対抗するというよりは、同じ動きをする模造品の人形のような感じになってしまっていた。

 「俺は・・・。トリス・アールグレンだ。よろしく。」

 目配せの意味をしっかりと汲んでくれたようで、トリストラムも偽名を名乗る。瞬間的に考えたにしては、モーリスもトリストラムもとっさに呼ばれたときに気付きやすくボロの出にくい本名に似た名前を選んでいた。

 「こちらこそよろしくお願いします。では、こちらにどうぞ。」

 アリスティアがくるりと向きをかえると、その動きとともに風がステップを踏んで舞うかのように優しく動く。アリスティアに付き従って三人は礼拝堂の椅子へと案内された。

 普段座っているソファとは大きくかけ離れた、木製の簡素な四人がけの椅子で、座り込んでからモーリスは顔をしかめた。

 「教会の椅子っていうのはなんとかならないものかな。快適な椅子ならば、何時間でも気持ちよく説教を聴いていられるよ。」

 「即物的な快感を与えることに対して抵抗があるように感じますね・・・教会って。」
 ガートルードは日ごろからプロンテラ大聖堂の礼拝にはいくものの、大聖堂でも固い椅子に座っていた。彼女もことあるごとに、クッションくらい入れてくれれば、痛みで気がそれることもなく真面目に話をきけるのにと思っている。

 「教会という器自体が宗教なのだろうね。人は時代と共に賢くなってきたから、教義と伝説と預言だけではやっていけない。一番いいのは、信者に修行を課すことなんだろうけど・・・近代でそうもいかないからね。せめて礼拝時間中にでも固い椅子に座らせて苦痛を与えることで、信者に対して「自分はこんなに痛いのを我慢している」っていうある種自虐的な快感を与えて、良いことをしたつもりにさせているのかもしれないな。」

 「教会も仕掛けの一部ですか?」
 「そういうことになるね。」

 モーリスはアーチ建築の天井を見つめながら答えた。
 トリストラムは先ほどから、弟を探しているのか目を皿のようにして参加者一人一人を確認している。

 「知ってるかい?弾圧されない宗教は広まらないんだ。」
 「そうなのですか?」
 「うん。この国の国教だって、かつては弾圧されていた。それによって救世主は殺された。他にも、世界で今メジャーになりつつある宗教はたいてい、最初は弾圧されていたんだね。椅子と同じだ。」

 「椅子?」
 ガートルードは不思議そうに聞き返した。なんだか、信仰に対する弾圧を椅子と例えるのが不思議に感じられた。ガートルードの脳内では、重そうな椅子が経典の上に乗っかって、その椅子に人が座っている滑稽な図が思い浮かべられている。

 「そう。椅子と同じだよ。椅子は個人に対する肉体的弾圧だ。痛みを与える。逆にいえばその痛みによって、信仰心が奮い立たされるわけだね。自分はこんなにも頑張っているってね。それを、黎明期の宗教単位に拡大すれば、弾圧こそ宗教に必要なものになる。神様の恵みなんて感じにくいから、人は試練を感じてそれ甘受することに喜びを覚える。ある種のマゾヒズムかな。これは神の与えた試練なのだと、より結束を強くしてくれるのだろうね。」

 「雨降って三年で固まる・・・ですね。」
 「それを言うなら、雨降って地固まるか、石の上にも三年だと思うよ。」

 そんな他愛のない会話をしていると、突然にざわついていた礼拝堂の中が不気味なほどの静寂によって埋め尽くされて、モーリスもガートルードも慌てて襟元を正して居住まいをなおした。

 一段高くなった祭壇へ、上手から一人の女性がしずしずと歩みだしてくる。
 くすんだような色合いの茶色い髪の毛が腰まで伸びている。概観で言う優雅さやオーラで言うならば、どちらかえといえば先ほどのアリスティアのほうが勝っているように思えた。

 「みなさん・・・お久しぶりです。」

 静かな礼拝堂の中を、空気を揺らす振動であるにもかかわらず、無音の状態よりもさらに静かだと感じさせるような声が広がっていく。

 「モーリス様・・・あれがフランチェスカ・ザベリオです。」

 ガートルードがこっそりと耳打ちをしてきたが、言われずとも空気からモーリスはそのことを察していた。
 「今日は、神託を受けて・・・皆様にそれを伝えるために参りました。」

 動いているのかどうかわからないほどに、唇は小さな動きで言葉をつむぎだす。一言二言、フランチェスカの言葉を聞いていてモーリスはその言葉に静寂を感じる理由をなんとなく理解していた。

 言葉に心が無かった。
 言葉は振動として空気を揺さぶるが、それを倍化させて人を揺さぶる心のようなものが感じられない。フランチェスカの言葉は中が空洞になっていて、普通の言葉よりも質量が半分しかないように思える。

 だから、その不思議な虚無感が神秘性を生み出しているのも事実だ。

 「革命により、この国は生まれ変わりました。」

 モーリスはそれは違うと思って心の中で反論をする。この国は連続性を失ってはいない。いや、人間も世界も始まりから現在、そして未来に至るまで、一度足りとも連続性を欠くことはないだろう。生まれ変わるということは認識の違いだ。連続性の中にちょっとしたイレギュラーな飛躍が発生しただけだ。

 過去から未来へと連綿と続く人の意思も、国の意思も少し変化しただけで、別物にすげかわったわけではない。

 「革命により、我々の生活は楽になりました・・・しかし、革命によって不正な利得を得た者がいるのも事実です。また、革命の前から悪事を続けてきて現在に至るものもいます。革命は生まれ変わりへのステップです。主はおっしゃいました。今こそ、革命のときに浄化をしそこなった悪しき魂を地上から一掃すべきときだと。」

 モーリスは口を手で抑えて、フランチェスカを睨み付けるような姿勢で話を聞き始めた。
 だんだんと、話が臭い方向へと流れてきている。

 「まずは・・・聖職にありながらも、姦淫を行い乙女を利用して春を鬻がせていた邪悪なる司教に神罰が下るでしょう。フェリクス・・・フェリクス司教。主はこのものを許しません。煉獄の炎で魂を浄化せねばなりません。」

 モーリスは神託に実名が出てきたことに驚愕を隠しえなかった。
 本来ならば、こういった託宣というものは、可能な限りに抽象化して、どのような事象をも当てはめることができるように作り出すものだが、フランチェスカのそれは、完璧な具体性を保有している。

 彼女はこのどうにもならない託宣のケリをどうやってつけるつもりだろうか。

 まさか本当に殺人を起こして何とかしようと考えているのだろうか。そうだとするならば、これは宗教と呼べるような代物ではなく、ただの詐欺師であるとすら言える。

 「皆様も・・・悪しき闇に触れて、心を汚さぬように・・・」

 フランチェスカの託宣は締めに入っていた。

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 「ふぅ。」

 日光の光に目を細めながら、モーリスは久々の新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。流水のようにそれは肺の中に浸入して、中に沈殿した淀んだ空気を洗い流してくれる。

 「物騒な託宣でしたね・・・。」

 同じく、託宣を聞き終えて礼拝堂から出てきたガートルードは顔をしかめた。

 「本当に、フェリクス司教というのが死ぬのか・・・。そもそも、それは実在の人物なのだろうか。ガートルード。帰ったら少し、フェリクスという司教についてセルバンテスと調べてくれないかい?」
 「かしこまりました。」

 「弟は・・・いなかった。」
 トリストラムは少し悔しそうにつぶやいた。彼の目的は、べつにこの宗教について調べることではなく、弟を見つけることだったのだから仕方がない。

 日光は少しだけ傾きかけていて、町並みの色はくっきりと照らし出された白から、少しずつ赤へと染まっていっている。

 モーリスは細い路地から出て、中央広場の外周を一周する大通りへと出た。

 「ふぅ。随分と物騒な宗教だね。下手をすれば、殺人予告ともとられかねない。」
 モーリスは建物のあったほうを見て、あきれたように呟いた。誰に同意を求めたというわけでもなく、ただその場にいる自分自身へともう一度確認をしたのかもしれない。

 「とりあえずは、ヴィクターを探すのも重要だが、探すにしても手がかりが少なすぎる。今後の調査次第だな。ガートルードは帰ったらセルバンテスとフェリクスという司教がいるのかどうかを調べると同時に、今後定期的にこの会に参加して、情報収集にあたってくれないかい?」

 「かしこまりました。」
 ガートルードは表層では冷静を装っていたが、日ごろこういったスリルを血に飢えて喉をかきむしる吸血鬼のごとくに渇望していたため、内心ではガッツポーズを取っていた。
 幼い頃からメイドとしてロージアン家にやってきて、一流に相応しい、一流の人格を形成してきたものの、その中核をなすもの自体は早々変わるものではない。

 冷たく冷えた表層は、地球の外殻のように美しい景色を作っていても、その中央にはぐつぐつと煮えたぎるマントルがあるのは、誰でも同じ事だろう。

 「トリストラムは・・・そうだな。今後はちょっとボクに任せておいてくれないかい?」
 「そ、それは構わんが・・・。」
 「思ったよりも、事はデリケートそうだ。殴りこんで弟を帰せでは通用しそうにない。」
 「ああ。それは俺も思った。」

 トリストラムは丸太のように無骨な腕を組んだ。
 現役時代は、剛のトリストラムと柔のモーリスとして、騎士団の竜虎と呼ばれていたが、現在では当時よりもさらに筋肉の鎧が増強されている。

 幾度となく鉄槌を振り下ろす作業は、サーベルを振るうよりも数段に厳しかった。かつては、戦いの勝敗においてしか、自分の成長を実感することは出来なかったが、孤独な武器の精錬は自分自身を見極めることを彼に教えてくれた。

 刀作りには、勝利も敗北も無かった。
 それはすべて自分がきめるものであり、一時は判断基準を失って混乱したこともある。だが、刀と向かい合ううちにかれは一つの真実を見極めていた。

 世界はしょせん自分のものだと。

 決して、自己中心的な判断ではなく、自分から見える世界はしょせんは自分のものでしかなかった。そこには普遍性も共通性も殆どがない。ならば、自分の世界の勝敗も成否も、満足する地点を決めるのも、すべては自分だった。

 だから、弟が彼にそむいて、装具作りをやめたときも、心配こそすれ、それ以上の感覚というのはトリストラムは一切無かった。

 弟には弟の世界がある。その世界は完全に彼のものなのだ。

 諦観ではなく、悟りだと信じたかった。

 装具士は他にもいたし、弟がいないと刀が作れないというわけでもなかった。

 モーリスは護身用に持ち歩いている脇差を軽く握り締める。
 不思議な暖かさを感じる。炉の中の火の精霊が刃に宿って、なかに息づいているような、そんな不思議な暖かさだった。

 「トリストラム・・・どうした?」

 永劫と一瞬が交錯するような、刹那の逡巡はモーリスによって打ち切られた。
 「いや・・・考え事をしていた。」

 「そう・・・か。」

 西の空は赤く燃えている。あの色はまだ温度が低い色だ。赤とか黒とか、血とか闇とか、本当に恐ろしいのはそんな色ではない。本当の火は白い。本当に切れる刃は白い。

 白こそ、狂気・・・そして凶器の色だ。 どんな色にも混ざって・・・狂気を混ぜ込んでしまう。赤も、青も、緑も・・・黒すらも、その狂気に抗うことはできないだろう。

 あの宗教は何色だろうか、白?黒?それとも・・・白いのは誰なのだろうか。