-枕かへしの見る夢-
赤い緑

「赤みがかった緑になじんでいる人であれば、赤で始まり緑で終わるような、ひょっとしたらわれわれにとっても、その二つの色の間で連続して移行するような色の系列を作り出すことができるはずである。その場合われわれがいつも同じ色合いを、たとえば茶色を見ているところで、彼はあるときは茶色を、別のときは赤みがかった緑を見ていることが明らかになるかもしれない。たとえば、われわれには同じ一つの色にしか見えない二つの化合物を彼は色によって区別することができ、一方を茶色と他方を赤みがかった緑と呼ぶ、ということが明らかになるかもしれない。」 ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン 色彩について

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 その部屋に堆積した埃の臭いをかいでいると、書物という媒介から知識を得るということを覚えたのは、いつの頃だったかという疑問が、イロリナの心の中に湧きあがってきた。

 そもそも、自分がどうしてここまで書に傾倒し、書に狂い、書に生きているのか、そんな理由すら思い出せない。

 長い年月の間に、記憶の上に埃が降り積もって、その姿を隠してしまったのだろう。本のように、埃を払えば見失う前のままの記録を残しているかもしれない。だが、その埃はあまりに頑固だったし、あまり自分自身のことにはイロリナは興味を持っていなかった。

 いくつかの教会の資料をあさっていると、ついつい関係の無い資料の関係の無い文面が目に付いて、目的のものをほっぽらかしてしまうということが先ほどから、頻発というよりももはや、それが必要なメソッドであるかのように連続的に発生している。

 そんな自分を客観的に嘲笑しつつ、部屋の掃除を思い出す。
 移動中の本にふと目を落とし、読みふけり、軽く十数分は時間を無駄にするのだ。

 それと同じ事が発生しているが、不思議とそれをやめようとは思わなかったし、時間が無駄であるとも思わない。そこらへんが自分のダメなところだとは思いつつも、わかっちゃいるけどやめられないという状態でイロリナは激しい道草をしながら資料を探しつづけた。

 とにかく、今現在においては天国というものの存在を肯定するならば、この場所は自分にとっては限りなくそれに近い場所だとイロリナは認識している。

 かび臭い本も埃も、喉に突き刺さるような乾燥も何もかもが、むしろ好ましいと感じる。

 いくつかの書物を、ぱらぱらとめくりながら目を通していくと、稀に目にとまる単語や文があり、それを見つけるとしばらくそれに目を通す。

 そしてまた次へ行く。

 この繰り返しでイロリナは目的のものを探しつづけていたが、一つ言っておくと、この目にとまる単語や文と目的のものには何ら関連性は見出せない。

 単に、興味がある、というだけであった。

 そのなかでも、会議の議事録などはついつい失笑してしまったりもした。
 教会の壁画を作成する際に、遠近法を用いて透視図を描く時の作業の是非について大真面目に議論していたりするのだが、その方法に関して随分ともめているようだった。

 他にも、アーチ建築の設計図や、数年前に行われた大聖堂の内装の一新の際の見積もりや工事計画など、保存されている書類は他分野に及び、イロリナの好奇心をガッチリとつかんで離さなかった。

 ただ、目的の妙な十字架・・・というよりもT字架に関する資料は殆ど見つからなかった。
 見つかった資料といえば、二百年前にそんなものを使用する異端が発生し、十字軍がわざわざ討伐に向かい、首謀者の某を火刑に処したなどという記述のみである。

 半ばがっかりしつつ、なにげなく手にとって書類の方が遥かにエキセントリックで生々しく、そしてセクシーな情報だった。

 もう数年前になるが、レイホウが大司狂に就任するきっかけともなった大規模な教会改革で処罰された人間のリストである。

 いわゆる、地位の売買に始まる多種多様な聖職腐敗の徹底たる断罪を強いた記録がかかれている。

 刑の違いこそあれど、そこに書かれているのはまさに地獄に送った人間リストであると言って良いもので、それぞれの人間の名前、地位、それから罪状に処刑方法、死に様などが事細かに記されている。

 二百年前の死んだ記述よりも、はるかに生き生きと、そして生々しく、蠢惑的な文章で、イロリナは思わずかじりつくかのように読みふけってしまった。

 もう一つ、目に付いたのは近くの修道院から謎の奇病が発生しているという10年以上前の報告書だった。
 なんでも、自分の名前すら言えないほどの前後不覚となって、最終的には死に至るという病が既に十件発生しており、奇跡的に命をとりとめたとしても、廃人に近い状態となってしまうというものだった。

 もっとも、そんな恐ろしい病が大流行していれば自分が知らないわけもないし、この修道院の周辺程度で収まった単発の感染だろうとイロリナは考えた。

 ひょっとしたら、そう結論付けることで自分が知らなかったという敗北感を無意識に緩和したのかもしれない。

 とっさに物が飛んでくると眼球を守ろうとして目を閉じるのと同じくらいに、人間の精神というのも自己防衛に対しては俊敏だ。

 一通り興味深いものを読み終えると、イロリナは本や書類をもとあった場所に戻すと書庫から廊下へと出た。

 薄暗く鬱屈した空気の詰め込まれた書庫から、明るく冷たくてさらさらの空気に満たされた廊下に出ると、夢から覚めたような不思議な感覚がある。あるいは、サーカス小屋から出てきたような気分だ。
 特に収穫が無かったと解ったことと、目的のもの以外を色々と手に入れたのが収穫だろう。

 なんとなく清々しい気分で廊下を歩く。
 帰る前に大司教様に挨拶をしていこうと思い、執務室の前までやってくると、ちょうど部屋の中から小柄な少女が出てくるところに出くわした。

 「あ、あなたは。」
 「あら、イロリナさん。調べ物はもうよろしいのですか?」

 世界全てを受け入れているかのような、極端に剛性の小さい・・・というよりも、絶無に等しい微笑を浮かべて、少女、エンプティはイロリナに問い掛けた。

 その微笑を見ていると、そんな顔ができるのが羨ましいと感じると同時に、自分には一生かけても真似できないだろうと感じるイロリナであった。

 「あの、レイホウ様は?」

 「お出かけになられました。」

 「そっか・・・。じゃあ、よろしく伝えておいてくれる?」

 「はい。かしこまりました。お気をつけて。」

 「ありがとう。」

 イロリナはエンプティに感化されたのか、自分に似合わない柔和な笑みなど作ってみようとしたものの、なんだか途中で気恥ずかしくなって、結果として顔面が痙攣しているような不思議な表情になってしまった。

 イロリナはそのまま聖堂から歩いて、太陽の光を全身に浴びながらプロンテラの通りを進んだ。
 自分が不安定になっているのが感じられる。物理的なバランスではなく、精神的なものだ。

 かつて、彼女はもっと飾り気の無い、極論すれば言葉から要旨というエッセンスだけを抽出して、それをもっとも合理的かつ短い音で伝えるようにしていた。

 少なくとも、女の子らしいなどというのとは、それこそ月と太陽くらいには離れていたし、そうしようとも思わなかった。

 だが、最近になって少しだけその心が氷解しつつある。
 世界に感化されることを完全に拒絶して、絶対の剛性によって、鉄壁の防御を固めていることに、少なからず不安を感じる。

 エンプティの微笑を見て、イロリナのなかのその念は一層強くなった。

 そんな、不安定な感情が、微笑と仏頂面の間で揺れて、さきほどのような引きつった微笑みに軟着陸するのだ。

 自分が毛嫌いしてきた一般というものへの迎合を望む人格が自分の中に生まれてきていることが、イロリナには明確に認識できたが、それの発生が即座に不快に繋がるかというとそうでもない。

 そんな人格が生まれてきたということが、少なからず安堵を与えているのも事実だった。
 だが、その人格を毛嫌いする人格もあることも事実であり、そうした思考の段階において、多階層的に連なった人格がそれぞれの主張を行い、極めて不安定ではある。

 大聖堂を背にイロリナはそのまま外周大通りを南下し、東西に走る中央通を右へと曲がる。
 そうして、中央広場が近づいてくるについれて、イロリナの耳に届くやかましい、だが不快ではない町の呼吸音のような人々の生活の声が大きくなってきた。

 不思議と、鬱屈していた思考をそんな喧騒が吹き飛ばして、心を解放してくれるような錯覚を覚える。
 それすらも恐らく、彼女の恐れる一般との迎合に他ならないのだが、それに抵抗するという選択肢は何故か思い浮かばなかった。

 ふと、露店を見て歩いている自分の姿が映ったガラス窓を見て、イロリナは息を呑んだ。
 一瞬、鏡に映っている少女の姿を自分として認識できずに、イロリナの脳は視覚から得た情報の解釈に酷いタイムラグを生じさせた。

 笑っている・・・。

 ガラスの中で自然に微笑んでいる少女は誰だろうかという問いに対して、脳はそれは自分ではないという大前提をぶちあげたが、それは光学的にありえないことだという事実も発生する。どこに間違いがあるのか遡って、そしてやっと笑っている=自分ではないという、長い間に作り上げてきた思考パターンに辿り着いたのだ。

 少なからず、その姿に衝撃を受けるものの、イロリナは今度は鏡の中を哀れむように嘲笑し、そこから視線を外した。

 「あら・・・あなた、イロリナ・バーソロミュちゃんじゃない?」

 突然に声をかけられて振り返ると、世界の色彩を塗りつぶしてしまいそうなほどの、吸い込まれそうな黒髪の女性がにこやかに微笑んでいた。

 一瞥しただけで、そこに宿る知性の灯を感じさせる瞳のやや下には、冗談みたいな鼻めがねのミニグラスが鎮座しており、まさに学者のステレオタイプといった顔を作り出している。

 だが、その容貌がギャグにならないというのが、その女性の真価であり、本質的な美しさのなせる業でもある。

 一瞬でそこまで分析してから、イロリナは柔和な笑みを浮かべてみた。実践配備第一号の笑顔だ。

 「ごきげんよう、フォルミスさま。その節はお世話になりました。いつからプロンテラへいらっしゃっていたのですか?」
 「ふふ。ご丁寧にどうも。随分と、物腰が柔らかくなったわね。」

 ちょっと大げさに驚いたような表情を作り、口に手を当てて驚くフォルミスを見てイロリナは心の中で負け1と記した。
 笑顔だけではまだまだ武器不足だ。

 元々、フォルミスには一年前に起きた事件で随分と世話になったらしいのだが、イロリナ自身が前後不覚に陥っていたせいもあって、今ひとつ具体的な記憶は無い。

 ただ、解っているのは自分が何かを失った・・・ということだけだ。

 「柔らかくなっては・・・いけませんか?」

 イロリナは少し聞き返し方がとげとげしかったかと反省しつつ、フォルミスの顔を見上げてみたものの、そこには相変わらずの微笑があった。

 ただ、少しエンプティの微笑とは違う。エンプティの微笑みは剛性も弾性も皆無に等しいものだったが、フォルミスの微笑みは剛性こそないけれど、弾性には富んでいる。

 「いいえ。悪くは無いわ。笑顔のほうが長生きできるわ。」
 「何かの健康法ですか?」

 「違うわ。」
 フォルミスは固めを瞑って、今度は少し意地悪な微笑を浮かべる。これもまた、イロリナは敗北2とつけなければならない表情だった。

 「笑顔のほうが敵が少なくて済むわ。背中からサクってヤツが減るの。」
 「それで・・・フォルミスさんは、よく笑っているのですか?」
 「それも答えはNO。私が笑っているのは・・・世界が面白くて仕方ないからよ。」
 「世界が・・・面白い・・・。」

 今まで自分に無かった言葉をイロリナは反芻した。
 世界が楽しいなどというのは考えたことも無かった。同世代の仲間の言葉に耳を傾ければ、それこそ愚にもつかない人の噂で盛り上がり、その場にいないものけなして笑うバカばかりだ。
 バカにあわせて自分までバカになっては割に合わないと、イロリナは諦観していた。

 「面白いですか?世界が。」
 「ええ。最高。あなた、何か一つでも今、身の回りにあるものを完全に説明できる?そう、例えばあの日光で良いわ。光って何色なのかしら?考えただけで不思議じゃない?」
 「え・・・。」
 「透明って何?色?光の色は白い?でも、白は白よ。光は色は無い。でも、白いと思う。なぜ?」
 「そ・・・それは・・・。」
 「ほら。解らないことだらけ。こんなに楽しいことって他にある?」

 フォルミスは勝ち誇ったように笑っていた。流れる黒髪に絡む陽光は、確かに青にも緑にも、白にも金にも、そして黒くも見える。髪の毛は黒いのに、光の反射しているところは白く見えて、だがその実、よくみてみれば黒ではない・・・。

 他方、イロリナは今までの人生で、道端にたくさん落ちていた宝石を全て無視してきていたという事実に気が付いて、過去有数の落胆を覚えていた。

 「あらあら。随分ショックだったみたいね。」
 「は・・・はい・・・。」
 「まぁ、そういうものよ。あのね。欲しいものは身の回りに溢れている。それに気付けないだけよ。でも、もう大丈夫、気付いたでしょう?あなたは頭の良い子だから。」

 「そ、そうですか。」

 それを認めてしまうのも傲慢な気がするし、認めないのも癪なので、イロリナはとりあえずあいまいな笑みを浮かべて目線をそらせてしまった。

 どうにも、このフォルミスを相手にしているとペースをかき乱されっぱなしになってしまうと、イロリナは少し不思議に思っていた。

 なぜか、フォルミスは回りのものをどんどん自分のペースに巻き込んでいく渦潮のような力を持っているし、なにより恐ろしいのはその渦に巻き込まれていく自覚が無く、気がつけば首までどっぷりという状態だということだろう。

 「そういえば、話は変わるのだけれども・・・あなたのお兄様。随分とお仕事で頑張っているらしいわね。」
 「え?あ、はい。お茶の輸入をやっているようですが、私はあまり関わっていませんので。」
 「お会いできるかしら?」
 「え?」
 「会ってみたいわ。」

 有無を言わさぬというより、拒否する理由を食いつぶしてしまうような笑みを浮かべるフォルミスを前に、イロリナはついつい頷いてしまった。

 「では・・・ついてきていただけます?家までご案内します。」
 「一度、門まで行ったことがあるわ。」
 「そうですか。」イロリナは頷いた。

 そしてそのまま、フォルミスを先導する形でイロリナは歩き始める。
 プロンテラの中央通の人ごみを避けながら進んで、外周へ出ると、高級住宅地である北西へと向きを変えた。

 もともと、騎士団を中心として貴族が多く住んでいたこの一角だけは、革命以前の厳かな空気を今に残すプロンテラの中でも異質な空間となっている。

 辿り着くまでの間、会話はずっと途絶えていてたが、フォルミスは終始愉快そうに回りの建築物を見回していた。
 彼女の貪欲な知識欲はどんなに見飽きたようなものからも、最後の一滴まで興味の対象を搾り出して楽しもうとするので、こういった町並みだって何度見ても飽きることは無い。

 相変わらず立派な鉄製の柵の入り口を通り過ぎて、広い庭を玄関へ向けて半分ほど進んだあたりで、メイドの娘がしずしずと出てきた。
 「おかえりなさいませ。イロリナ様。」
 「兄上にお客様だ。兄上はいるかい?」

 不思議なほどの入れ替わりの速さで、イロリナは昔どおりの無骨な話し方に戻って、顔までそれに見合った仏頂面になる。
 一見、昔に戻ってしまったように見えるが、ガートルード相手にいきなり態度を変えるのもなんだか気恥ずかしいという感情が生まれたせいだった。

 「はじめまして・・・じゃなくて、確か一度お会いしたことがありましたね。一年前の革命のときでしたでしょうか。」
 「ええ。そうね。」

 フォルミスは先ほどとは少し違う、社交的な作られた笑顔をして頷いた。

 「メイドのガートルードです。御用の場合は何なりとお申し付けください。ささ、こちらへどうぞ。」
 「あら。ありがとう。」
 玄関で一瞬、躊躇してフォルミスは脱ぎかけた靴を履きなおして、玄関から館の中へと足を踏み入れた。
 どうにも、この室内で靴を脱がないという風習は彼女にはなじみが無いため、一瞬靴を脱ごうとしてしまうことが多い。

 フォルミスは家の中の床を土足で踏みつけることに軽い高揚感を覚えつつ、案内されるままに客室へと進み、そのまま沈み込んで潰れてしまうのではないかと思うような柔らかいソファに腰掛けた。彼女にとってはこの柔らかさが、なんだか不安で、故郷の座布団を恋しく思った。

 横にイロリナが座る。
 彼女はさすがに生え抜きのお嬢様なだけあって、座る仕草一つとっても、不思議な優美さが感じられた。

 ほどなくして、フォルミス達が入ってきたのとは逆側にあるドアを開けて、銀髪を短く切りそろえた好青年が部屋に入ってきた。

 「こんにちは。突然の訪問、お許しください。」

 フォルミスは立ち上がって自国の礼儀にのっとって頭を下げた。

 「いえ、大丈夫ですよ。お気になさらずに。あ、申し送れました。ロージアン家当主のモーリス・ロージアンです。」

 「フォルミス・ツチミカド・ルッセリアです。よろしく。」
 「フォ、フォルミス・ツチミカド・ルッセリアさん!?あの、バフォメットを倒した六英傑のフォルミスさんですか!?」
 「はい。良くご存知のようで、光栄です。」
 「い、いや、こちらこそ・・・六英傑の方にお会いできるだなんて感動です。」

 少年みたいに喜びながらモーリスはフォルミスの向かい側のイスに腰掛けた。

 「いやぁ、かねがねお噂は聞いておりましたが・・・感動です。」
 噂・・・という単語にフォルミスは嫌な予感を感じた。過去に世界に魔法が存在したころ、ファイアボールがメテオサイズになるような彼女の絶大な魔力ゆえに、様々な噂が生まれたものだ。
 「あの・・・どのような噂を?」
 「そりゃもう。地獄から来た魔術師だとか、胎児を食って魔力を手に入れているだとか・・・魔族とのハーフだとか。実は竜人だとか。」

 嫌な予感が的中してフォルミスはため息をついた。
 「そ、そんな荒唐無稽な・・・。」
 「はは。ボクも信じちゃいませんよ。ただ、そんなふうに表現される方がどんな方かっていう興味はありました。」
 「で、本物を見た感想はどうです?」
 「綺麗な方で驚きました。」
 「あら、それはありがとう御座います。」

 対お世辞迎撃モードといった感じの笑顔でフォルミスは微笑んだ。
 イロリナはそんな微妙な表情の変化を興味深く見守っていた。退屈だと思っていた世界からの脱却の興味の対象第一号はフォルミスに決定したようだ。

 ガートルードが紅茶のカップを三つ持って部屋へとやってくる。

 「砂糖とミルクはいかがいたしましょうか?」
 「無くてけっこうよ。」
 「はい。」
 ガートルードは頷いて、芳しい湯気の立ち上るストレートの紅茶のカップをフォルミスとイロリナの前に音を立てぬように置き、ミルクティーのカップをモーリスの前に置いた。

 「今日はマイノリティか・・・。」

 モーリスは白濁した自分のカップの中身を見つめて肩をすくめた。

 「良いお茶ですね。」
 「ええ。僕が直接現地まで買い付けにいっているんです。」
 「そうなのですか。ええ、良い目利きでいらっしゃいますね。本当に美味しい。」
 「はは、そこまで誉められると照れちゃいます。」
 「兄上・・・あまりみっともない言動をなさらないでください。」

 顔が緩みっぱなしのモーリスはイロリナに釘をさされて何とか真顔に戻って見せたが、やっぱり少しだらしなく笑っているようにも見える。

 「ところで、モーリスさん。まいにちあゆみという商人をご存知ですか?」
 フォルミスは少しテーブルの上へと体を乗り出した。
 「ご、ご存知ですか?って、そりゃぁもちろん。六英傑の一人ではないですか。天才アルケミストまいにちあゆみといったら、この国じゃ子供だって知っていますよ。」
 「ええ。そうですね。いま、彼女お茶の輸入業もやっているのです。」
 「ほう。それはまた、奇遇ですな。父上はどうも、あゆみさんとは個人的に交友があったようですが、亡くなって以来は、関係が途絶えてしまっていますが・・・。そこらへんはイロリナのが詳しいんじゃないか?」
 「はい。父上が生きていたことは、よく当家へとお越しいただいていました。」
 「そうですね。最近は来ていないようですが・・・。モーリスさんは、コンロンのほうからお茶を仕入れていらっしゃるようですね。」

 フォルミスは相変わらず余裕の笑みを浮かべているが、話が商売の方向になってから、すこし場の空気が緊張している。

 緩んでいたモーリスの顔も今ではすっかり社交的微笑みという名の真顔になっていた。

 「はい。あゆみさんは、どちらで仕入れていらっしゃるのですか?」
 「彼女はアマツです。私が紹介いたしましたの。」
 「ほう。あそこは私も一度、貿易をしたいと思っていたのですが、なにぶん許可してもらえないもので。」
 「そうでしょうね。そういう国ですから。」

 フォルミスはテーブルに置いてあった紅茶を一口飲む。
 「美味しい。」
 「僕はそのままじゃ苦くてちょっと・・・。」モーリスは苦笑した。

 少しの間、誰も何も口にしない時間が続いた。
 カップをテーブルに下ろしたときのカチャリという音が、やたら大きく部屋に響き渡る。

 「今日は・・・これくらいにしておきましょうか。」

 フォルミスは笑顔を浮かべてソファから立ち上がった。

 「1ラウンド目はこんなものですか・・・。フォルミスさんもお人が悪いですね。」
 モーリスはフォルミスの視線に正面から自分の視線をぶつけつつ、ミルクティを飲んだ。いつもと違って、まったく甘く感じられない。

 「ええ。でも、町でイロリナさんとお会いしたのは、偶然でしたわ。もともとは、一人でお伺いするつもりでしたから。」

 「そうでしたか・・・。また、何かありましたらどうぞ。」
 「ええ。そうさせていただくつもりです。では。」フォルミスは軽く頭を下げてから、ガートルードに案内されて、部屋出て行った。」

 客間の窓から、フォルミスが庭を歩いて家から出て行くのを見届けてから、イロリナは紅茶を一口飲んで、不満げに呟いた。

 「なんだったのですか?兄上。」
 「商談・・・かな。」
 「え?」
 「きっと、お茶の売買のことで何か話したかったんだろうね。今日はその挨拶みたいなもんだ。だから第一ラウンド。」
 「なるほど、そういうことでしたか。確かに、あゆみさんのご友人のようですから、そういう役目をあゆみさんから仰せつかっていても不思議ではない・・・。」

 イロリナは手に持ったカップの中の褐色の液面に映し出された自分を見つめた。

 「あの・・・モーリス様。」
 そんな折、恐る恐るガートルードが部屋へと戻って来たが、その手には少し大きな小包が抱えられていた。

 「どうしたんだい?ガートルード。」
 「あの・・・こんなものが・・・玄関に届いていたのですが。」

 そう言って、ガートルードは小包をモーリスへと手渡した。
 小包にはただ一言、親愛なるモーリス様へ、とだけ書かれている。

 「これは・・・。」

 小包を開けると、そこにはパッキリと、それは無残に割れた皿が一枚入っていた。その表面には薄青色で絵が描かれており、どうも男が三人ほど描かれているように見えるのだが、それ以上は割れていて確認が出来ない。

 「なんでしょうか・・・割れた皿を届けるとは無礼な・・・。」
 「まぁ、そう怒るなイロリナ。面白い皿じゃないか・・・絵皿だな。コンロンでこんなのを見かけたけど・・・少し違うような気もする。」

 三人とも割れた皿を囲んで一様に首をかしげていた。

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 エウフラジアは随分と長い取り調べから解放されて自室に戻ったところだった。ほとんど、夜通しで質問されつづけていたせいで、朝日などとっくに昇って、影も短くなる時間帯だった。

 同じ現場に居合わせながらも、殆ど疑いを受けなかったレイホウが少し憎らしい。これが、権威の力だろうかと思うと、エウフラジアは寝不足のイライラも手伝って途端に不機嫌になってきた。

 眠いのは確かなのだが、こんな時間に眠るのはどうにも罪悪に感じられた。

 マルコも同様に眠かったらしく、フラフラとした足取りで自室に入っていくのが見えた。
 不思議なのはトゥリビオ副修道院長で、どうにも何かに怯えているようで、取調べに対しても終始「何も知らない。」といっていたが、あれでは露骨に怪しい。

 むしろ、何かやましいことでも有るのではないかと、疑い始めている自分をエウフラジアは心の中で厳しくしかりつけた。

 人を疑うのは良くない・・・。
 トゥリビオは元々、昔からのフェリクスの仲間であるから、彼が死んだショックは自分たちよりも並々ならぬものがあるだろう。

 彼女そう思い込んで、トゥリビオの態度も全て気のせいだと信じて眠ることにした。罪悪感より疲労のが勝った結果である。

 養父とはいえ、父が死んだ。
 ベッドに入って初めて、涙が零れ落ちてきた。ずっと溜め込んで、我慢していた涙が、堰を切って溢れ出してきて、枕に染み込んでいく。

 そんな悲しみの海へと、彼女の意識も深く深く沈み込んでいった。

 目が醒めたとき、既に日は傾いて、真っ赤な夕日が空と大地の狭間に押しつぶされようとしていた。
 眠りすぎたせいか痛む頭を押えてエウフラジアは立ち上がると、プリーストの服に着替えて、一階の礼拝堂へと向かう。

 そこではまだ、大聖堂と帝国軍の混成の捜査班が現場の検証を行っていて、寝る前に見た気がする顔の人間が動き回っていた。

 「おや。起きてきたか・・・。調子はどうだ?」
 「あら、レイホウ様。お陰さまで・・・。」

 今日もたっぷり健康に寝ましたという感じに清々しく声をかけて来たレイホウを、エウフラジアは少し憎らしげに見つめ返して挨拶をした。お陰さまで・・・のあとには最悪ですという言葉が省略されている。エウフラジアはその部分を心の中で朗々と読み上げた。

 「解らぬ・・・さっぱり解らぬ。どうしてあんな犯行ができたのか・・・。」
 「そうですね・・・。」
 「おや、お嬢ちゃん。お嬢ちゃん、ここの人だったんか。」

 ふと、大柄な男がエウフラジアの後ろからやってきて、なれなれしく肩に手をかけた。
 「貴様・・・こいつの知り合いか?」
 レイホウが鋭い目つきで睨み返す。
 「おっと、これは失礼、まぁ、そのようなものです。」
 「え?」
 「この間は良かったぜ。また頼むってみんな言っている。」
 「あの・・・なんのことだか。」

 エウフラジアは頭二つほど背の高いその男を見上げて首をかしげた。
 「おっと、そうだな。ここではそのほうが良いのかな・・・。」

 「貴様、何をごちゃごちゃ言っている。所属を名乗れ。」
 「お、俺ですか?」

 男の曖昧な態度にレイホウの語気が少し荒くなった。ビリビリと空気を振るわせる声が、辺りにいる人間全員を萎縮させる。

 「失礼しました。プロンテラ帝国軍第三歩兵師団のブリッテン・ヒルドです。これでも昔は、クルセイダーの転職試験を手伝っておりましてね・・・。その頃の知り合いとちょっと見間違えしまったんです。本当に、失礼しました。」

 ブリッテンの軽薄な態度がレイホウを苛立たせた。
 公務中でなければ殴り倒してやりたいようなヤツだったが、レイホウは拳を握り締めてその場は我慢した。

 「やっぱり・・・私、軍人の方に知り合いは居ませんから。」
 「うんうん。そうだろうな。人違いだ。すまなかったな。」

 意味ありげな笑いを浮かべて頷くブリッテンを睨みつけつつ、レイホウは思案していた。
 どのようにしたら、昨日の犯行が可能になるのか・・・。

 いつの間にか、気配を感じさせずに一人の老人がレイホウの横に立っていた。

 「おやおや・・・昼も夜も問わずにご苦労なことですな・・・。」
 小柄な老人がレイホウを見上げて言った。

 「貴様・・・何者だ?」
 「はっはっは。ジゲムントじゃよジゲムント。ここの居候になっとるものじゃ。」

 昨日、犯行当時はいなかったが夜に帰ってきた老人がいるというのをレイホウは思い出した。
 レイホウは老人の体を爪先から頭まで見上げてみたが、この骨と皮のような老人にはちょっと殺人などという大仕事は無理のように思われた。

 「老体。取り調べをずっと受けていたようだが。大丈夫か?」
 「ふむふむ。お前さん、言葉は荒いが、優しい子じゃの。」
 「んなこと聞いてない。もうろくしたか?」

 レイホウは不機嫌そうに息を荒げた。
 それを見てジゲムントは一層愉快そうに笑って、答える。

 「そうかのそうかの。わしゃぁもうこんな年で、耳も目も弱っておるがのう。一つ言わせて貰えば、昨日はアンタら以外には修道院に人の出入りはなかったんじゃ。」
 「なんだと!?なぜそんなことが解る。」
 「わしゃずっと、修道院の丘の見える場所で・・・昨日は本も読み終えてしまって、物思いにふけりながら、ぼーっと丘を見つめておった。」
 「ほう・・・。」
 「そんだけじゃ。」
 「なんだと?」
 「だから・・・誰も出入りはなかったのじゃ。修道院の入り口をずっと遠くから見ておったが、アンタら以外に誰も入っちゃおらん。」
 「にわかには信じがたい話だな・・・。」

 レイホウは腕組みをして厳しい表情になった。
 指の腹で唇をなでつけて状況を考えはじめる。

 そもそも、最初の事件・・・つまり、自分が気絶させられたのは外部犯行でなければ頭数が足りなくなる。
 そして第二の事件も、少し前まで自分のいたはずの場所に死体が発生した。その間、みなは自分の回りにいた。

 どちらも、不可能といえる状態で行われた事件だった。
 しかも・・・ジゲムントが言うには誰も修道院に出入りはしていないという。

 「無理だ・・・物理的に無理がある。」
 「ええ・・・。そうですよ。ジゲムントさん。きっと見落としていたかもしれません。」

 エウフラジアもジゲムントの話には懐疑的だった。

 「まったく・・・ワシを信じぬか。貴様ら聖職者じゃろう。」
 「解った。参考にしよう。」
 「なんという灰色な言い回しじゃ・・・。」

 睨み付けるジゲムントを、レイホウは口の端を軽く上げて薄笑いしつつ見下ろした。
 「そうそうエウフラジア。部屋を用意してくれ。」
 「え?」
 「解らぬままというのも腹立たしいのでな。捜査を兼ねて私はしばらくここに泊まるつもりだ。空いておるだろう?」
 「は、はい。でも、よろしいのですか?粗末な部屋しか御座いませんが。」
 「聖職者なんてそんなもんで充分だ。」

 そうは言いつつも、レイホウは自室の枕だらけのベッドを思い出して少し心が痛んだ。
 もっとも、そんなことをいちいち気にするタチでもない上に、クリティカルな部分以外では嘘も方便と思っている合理主義な人間でもある。
 そんな心の痛みはすぐにどこかへ消えた。

 「では、空いているお部屋にご案内しますね。」
 「うむ。頼むぞ。」

 その場にいたブリッテンとジゲムントを順番に意味ありげな笑みを浮かべて見つめてから、レイホウはエウフラジアについてその場を後にした。

 彼女の笑みに意味があったわけではない。
 どちらかといえば、聖職者としてはあるまじきタチの悪いブラフでもあった。私は何でもお見通しだぞ?といった表情で全員を見つめてやれば、やましいことがあれば耐え切れなくなるのではないかという希望的観測の産物である。

 もうすぐ、2日目の日も暮れようとしていた。

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 薄暗い部屋の中、上品で高級なものを寄せ集めて、下品なものを作り出すのが得意な連中が、下劣な品性を剥き出しにして集まっていた。

 廃頽的な香りの紫煙につつまれて、ランプの揺らめく炎を見つつ、高級な酒を飲む。

 そんな行為が贅沢だと思えるような下劣な人間もいるのだと、モーリスはため息をついた。
 「どうした?モーリス君。面白く無さそうだね。」

 目の前の男は、酒を一口飲んで下品な笑みを浮かべた。
 モーリスは嫌悪感を露にした。

 それなりの部屋にあれば、高級に見えるであろう立派な椅子も調度品も、そんな高級を重ね合わせて下品を作り出したこの部屋にあっては、ゴミ以下の薄汚いものに見える。

 目の前の男の堕落ぶりにモーリスは目を背けたくなった。
 男の名はレオ・フォン・フリッシュかつては、モーリスも師事した剣士ギルドの達人だったが、革命を機に商売を始め、今では富に溺れた薄汚い人間の一人だった。

 貧しくとも心までは貧しくならず、富めるときもおごらずがモットーのモーリスにとってはまさに反面教師といえる。

 彼の堕落ぶりはかねてより聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。
 モーリスにとってレオ・フォン・フリッシュは元々尊敬していた師であっただけに、そんな堕落しているというのは噂だと信じたいと思っていたが、目の前の光景はそんな気持ちを破壊するには充分であった。

 もっとも、今日彼を呼び出したのは、他でもないレオ・フォン自身だった。

 面白いものがあるから夕食がてら遊びに来いと言われて来てみたものの、あったのは不愉快なものだけだった。
 つまり、腐った金持達の集う狂った集会である。
 部屋のいたるところで淫猥な嬌声や、肉のぶつかる音が聞こえ、肥え太った男の体が、線の細い白い女の裸を抱きかかえているのが見える。

 部屋中でそんな光景が繰り広げられる中・・・レオ・フォン・フリッシュもその股間に頭をうずめた女を片手で弄びながら話をしていた。

 「くっくっく。どうだね?」
 部屋の片隅で蠢く肉の塊が見える。
 まだ幼い少年と少女が、全裸で蠢いていた。

 「なんというか・・・狂っていますね。」
 「狂っている?はっはっは。それは光栄だね。我々はもう、日々に飽き飽きしているのだよ。金で買えるものは買い尽くした。そうなれば、あとは欲しいのはそんな退屈を破壊してくれる狂気だ。君も随分と稼いでいるようだから解るだろう?」

 その言葉はモーリスの逆鱗に触れるには充分な力を持っていたが、もはや怒りを通り越して呆れた彼には、怒る価値すら感じられなかった。

 「確か・・・君のところには妹がいたね。なかなか賢そうで美しい娘だ。」
 「それが・・・何か?」
 「いやいや。どうだね、君も我々の集いに参加しないかね?いやぁ、世の中に飽き飽きした連中の中には、聖職者を汚して楽しむだとか、兄妹がそうしてまぐわっているのを見て楽しむなんてヤツらもいるものでね。君もまんざらでもないだろう?え?妹を汚してみたいとは思わんかね?退屈な日常からの脱却だ。」

 モーリスの肩が小刻みに震えていた。
 ふつふつと湧き上がる怒りの感情にまかせ、かれは手につけていた白い手袋の先端をつまみあげた。

 スっと風を撫でつける音とともに、モーリスの手から離れた手袋がレオ・フォン・フリッシュの顔面に叩きつけられる。

 「私個人への侮辱ならば、あなたに師事した日々の恩に免じていくらでも耐え忍びましょう。ですが、あなたは我が妹を侮辱した。これはもはや許されざる蛮行。剣をとれ!レオ・フォン・フリッシュ!己が正しいと思うならば私を打ち倒せ!」

 モーリスはやおら立ち上がって抜刀した。
 親友トリストラム・ホールグレンの打ち上げた綾杉肌の刃紋がギラギラと光を反射して闇の中に浮かび上がった。

 「はぁ?決闘?決闘のつもりか?モーリス。どうした?酔うには早いぞ。まったく。」
 「え・・・。」

 相手が逆上して、剣を抜くことを期待していたモーリスは拍子抜けすると共に、言いようの無い哀しみを感じた。かつての師匠である彼を相手に決闘を申し込めば・・・昔のように剣を抜いて応じてくると思っていた。

 だが、目の前にはもはや・・・かつての師匠としてのレオ・フォン・フリッシュは欠片も無く、ただの醜く肥え太った男だった。

 目から涙が溢れ出してくるのを感じる。
 「そこまで・・・そこまで落ちぶれて・・・。」

 モーリスは刀を鞘に戻すとうつむいて、ポタポタと涙をこぼした。

 「何を突っ立っているモーリス。あまり面白いジョークではないぞ。どうだ?妹はダメにしてもこないか?いい聖職者がいるんだ。すっかり立派なメス豚に育っている。いいぞぉ。神を汚す高揚感は。」
 「失礼・・・します。」

 もうどんな言葉も聞きたくはなかった。
 モーリスは一礼して踵を返すと、そのまま逃げ出すようにレオ・フォン・フリッシュの邸宅を後にした。

 

続く